国際協力サロン-Together Saloon for International Cooperation

連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」

2014.07.01
第24回  定火消と町火消/旗本奴と町奴

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定火消と町火消し
  江戸の火災に対して、大岡越前守忠相が町民に「町火消」と呼ばれる自衛消防団を組織させたことで有名ですが、「定火消」などと混同しがちです。ほかにも江戸城を守るための「大名火消」があり、町火消と共に三つの消防組織によって江戸は護られていました。

 慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、急速に町作りが始まったのですが、江戸城入城当時は荒れ果てた山村だった江戸の人口は、享保年間(1700年代前半頃)には140万人に達していました。当時、ロンドンの人口は80万人、パリは55万人でしたから、世界一の大都市でした。そこで、三代将軍家光は、寛永6年(1629)に「奉書火消」の制度をつくり、火災が発生すると幕府からの指令(奉書)によって、大名を招集して消火に当たらせましたが、寛永20年(1643)、16の大名家を指名して「大名火消」と呼ぶ消防組織をつくらせました。石高(こくだか:禄高)に応じて人足を出さして、江戸城や大名家など武家屋敷の消火に当たらせました。
  慶安3年(1650)四代将軍家綱は、4000石以上の高級旗本4人に命じて定火消という消防組織をつくり、飯田橋、市ヶ谷、お茶の水、麹町の屋敷に常時役人や火消人足を詰めさせて、火事が起きたらすぐ出動できるようにしました。宝永元年(1704)には定火消が10組になって、「十人火消」とか「十人屋敷」とか呼ばれました。この消火に当たる人足を「臥煙(がえん)」と呼び、常時火消屋敷に寝泊まりさせていましたが、寝るときは一列に並んで一本の丸太を枕にして、火事の際には寝ずの番が枕の端を木槌で叩くとその衝撃で全員が飛び起きるという仕組で、これが「たたき起こす」の語源になりました。
  江戸は人口が急速に増えたため、人口密度は非常に高くなり、木造家屋が密集していたので火災が多発しました。明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」では、江戸の大半が焼失して死者も10万人を超え、江戸城も焼失し、その後江戸城の天守閣は再建されませんでした。
  享保3年(1718)町奉行大岡忠相がこれまでの火消し組合を再編成して、「いろは四十八組」のほかに、本所深川の16組を合わせて64組の町火消ができました。なお、明暦の大火が「振り袖火事」と呼ばれた理由は、ある娘が本郷の本妙寺で見染めた寺小姓に恋煩いして亡くなってので、着ていた振袖を本妙寺で供養してもらった際に、火中に投じた振袖が突風で空中に舞い、それが原因で大火になったという怨念話がよく知られています。しかし、急速に発展した江戸の都市改造のために、幕府が放火したとか、火元が幕府の重要な人物の屋敷だったから、これを秘匿するために本妙寺が火元を引き受けたなどの説もあります。真相はどうあれ、恋煩いの怨念話の方がいつの世にも最も日本人に好まれるのです。

旗本奴(はたもとやっこ)と町奴(まちやっこ)
 大名行列などの絵巻に槍を持ったり駕籠を担いだりする足軽以下の使用人は、一様に短い半纏を羽織っていますが、これらを「奴」といって凧の絵柄にもなっていますから、「旗本奴」や「町奴」などと混同しがちです。旗本奴は、江戸時代初期、派手な身なりをして徒党を組み、町民たちに乱暴をはたらいた旗本や御家人です。また町奴は、旗本奴に対抗した町民で、派手な格好と売られた喧嘩は必ず買うといった無頼の連中でしたが、町民たちには人気がありました。

 もともと奴は「家っ子」からきており、ここから下っ端の、あるいは半端な人間を指す言葉になったといいます。旗本奴や町奴は、派手な衣装を纏い派手な行動をしていましたが、これは戦国時代の風潮で「かぶく」といい、これらの者を「かぶき者」と称しました。戦国時代から江戸時代初期のころにかけて多かったようですが、これが歌舞伎の源流だという説もあります。豊臣秀吉の小田原攻めに遅れた伊達政宗は、秀吉の派手好みを知っていましたから、全軍に白装束を着せて街を練り歩き、秀吉から「かぶき者」と称されて許されたという話もあります。また、朝鮮出兵の際にも派手な軍装だったため、ここから「伊達男」の言葉が生まれました。
  旗本奴で有名な水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)は、福山藩主水野勝成の孫に当たる3000石の大身旗本でしたが、暇な身分から、大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)という組織の首領となって、揃いの服装で町を練り歩き、町民に乱暴を働きました。町奴の代表格には幡随院長兵衛がいました。幡随院長兵衛(ばんずいんのちょうべえ)は、佐賀藩士塚本伊織の子で、今でいう職業斡旋所ともいうべき「口入れ屋(就職あっせん所)」を営んでいましたが、乱暴を働く旗本奴と対立して町奴の頭領となりました。この対立で多くの町民たちが旗本奴からの被害を免れたといいますが、逆に迷惑を被った人たちも多かったようです。
  明暦3年(1657)7月18、水野十郎左衛門は、仲直りを理由に幡随院長兵衛を呼び出して、風呂場で斬り殺しました。水野十郎左衛門は「無礼討ち」であるとの理由で罪にはならなかったのですが、7年後の寛文4年(1664)、幕府の評定所から、「ふだんの行いがよろしからず」として切腹を申し渡され、家名断絶(家禄没収、家族追放)してしまいました。
  ところで、日本三大仇討ちのひとつとして有名な「荒木又右衛門の伊賀越え決闘鍵屋の辻」事件は、寛永7年(1630)、岡山藩主池田忠雄の小姓渡辺源太夫が、同藩の藩士河合又五郎に殺されるという事件が起き、この又五郎が旗本安藤次右衛門正珍にかくまわれたことが発端でしたが、河合又五郎の引き渡しを求める池田家と、拒む旗本との対立が熾烈を極めました。
  当時激しかった外様大名と旗本の確執は、その原因のひとつに外様大名の禄高が譜代大名や旗本の禄高に比べて非常に高いことがありました。水野十郎左衛門などが旗本奴として乱暴をはたらいたのは、それら鬱積した不満がその背景にあったと思われます。旗本たちの親分格の大久保彦左衛門が、「天下のご意見番」としてさまざまな活躍をしたという逸話は有名ですが、この大久保彦左衛門が書いた『三河物語』にも、功績のあった旗本たちより外様大名の方が給料が高いという不満が書かれています。
  余談ですが、この『三河物語』には、旗本たちが徳川家のために命がけで戦った様子もいろいろ書かれていますが、大坂夏の陣では真田幸村に家康の本陣が突き崩れされた際に、踏みとどまったのは彦左衛門だけだったなどと、ちゃっかりと宣伝しているところもあります。また、沼津城主の次兄に後継者がいなかったので、末弟の彦左衛門に継がせようとしましたが、「自分の功績ではないから」と断ったため、沼津二万石は改易となった事件とか、小田原城主だった長兄が失脚した際に、3000石の旗本の地位を返上して抗議したことでも有名な人です。これらはあくまでも逸話ですが、悪いことをしても給料を返上するなどの偉い人はいないどころか、子会社や関連団体に天下りしてしらばっくれている人が多いのが現在です。

(篠井純四郎)

 
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2014.07.01
第23回  与力と同心/東西町奉行と南北町奉行

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与力と同心
  時代小説やテレビなどで「与力」とか「同心」とかの役人が出てきますが、町奉行所や火付け盗賊改め方などとは関係のない部署でも与力とか同心の言葉が出てきますから混乱します。与力とか同心という役職は、なにも捕物関係だけの役職ではないのです。
  与力は、「寄騎」とも書きますが、鎌倉、室町時代においては、武将や大名に従う下級武士でした。戦国時代においては有力武将の上級家臣の下に就く騎馬武者のことを指しましたが、江戸時代には奉行や番頭(ばんがしら:部隊長)などの下に就いた武士のことです。同心とは、与力の下に就いた軽輩の侍で、大半は戦時で「足軽」と呼ばれた人たちでした。

 与力は、本来の意味は寄騎と書くように馬に乗れる身分であり、「味方する人」を指した言葉でしたが、室町時代になってくると有力な武将に味方する土地の小豪族を意味していました。この有力な武将を「寄り親」、味方する者を「寄り子」といいました。
  戦国時代になると、大名たちは家臣である有力武将(寄り親)に、この小豪族(寄り子)を家臣にさせると有力武将の力が強くなり、謀反が起きることを警戒して配属に苦労したようです。江戸時代になってからは、幕府の重臣たちの下で、同心を配下にもって重臣の補佐にあたりました。有名なのは町奉行所の与力で、町民たちから鳶の頭、力士とともに「江戸の三男(さんおとこ)」と呼ばれ、多くは200石取りくらいの旗本でしたが、不浄な罪人たちと接するから「不浄役人」と呼ばれて、本来将軍に拝謁できる身分(お目見え)でしたが、拝謁できませんでした。
  同心とは、もとは目的や志を同じくする者であり、また協力し味方する意味がありしたが、江戸時代になって、幕府の足軽を同心としていろいろな役に就かせました。忍者を祖先に持つ「甲賀同心」や「伊賀同心」、また、国境警備のための「八王子同心」など多くの同心がいました。
  ドラマなどでおなじみの町奉行所の同心は、30石2人扶持という軽輩でしたが、商家などからの付け届けもあって、岡っ引きや目明しなどを雇えることができました。とくに大名たちは、参勤交代に従って江戸にきた藩士が起こす江戸の地理や習慣などに不案内からくるトラブルを、内緒で処理したいがために付け届けする習慣があり、比較的裕福だったようです。
  町奉行所の与力・同心たちは、毎朝銭湯の女風呂に入れました。一般の女性たちが朝早くから入浴する習慣がなかったことや、町民は役人と一緒の風呂では気づまりだったことなどが理由でしょうが、隣の男風呂での町民の会話から犯罪を未然に防いだり取り締まったりできるという理由もあったようです。
  それにしても、男性にとってはうらやましいというか、おいしい特権があったものです。

東西町奉行と南北町奉行
  江戸時代の町奉行といえば、南町奉行とか北町奉行とかは時代小説に出てくることが多いのでおなじみですが、東町奉行とか西町奉行とかの言葉が出てきますと混乱する人多いようです。じつは、南北町奉行は江戸におかれ、東西の町奉行は大坂、京都におかれていました。関西を舞台とする捕物小説が少ないことによる混乱だろうと思います。
  幕府は、江戸の町の治安を守るために、通常2名の町奉行を任命して、南町奉行所と北町奉行所に詰めて、それぞれ交代で勤務しました。一時期、江戸中町奉行が設けられたこともありました。これと同じように、大阪や京都の治安を守るために、通常2名の町奉行をおきました。奉行は東町奉行所と西町奉行所に詰めて交代で勤務しました。

 江戸幕府は、町の治安を守るために、江戸以外に幕府直轄地である大阪、京都、駿府あるいは長崎などに町奉行所を設置しました。これを遠国(おんごく)奉行と呼び、老中の指揮下に置いきました。この遠国奉行には、ほかに奈良奉行、伏見奉行、堺奉行、山田奉行、下田奉行、日光奉行、佐渡奉行、函館奉行、新潟奉行、羽田奉行などがありました。
  大阪町奉行は、配下に与力30騎、同心50人、京都町奉行は与力20騎、同心50人で町の治安を守っていました。老中の指揮下にあったとはいえ、事実上大阪町奉行は大阪城代、京都町奉行は京都所司代の指揮下にありました。京都所司代は鎌倉時代の六波羅探題にならって、織田信長が京都や西国の治安維持のために設置されたもので、幕末には京都守護職がおかれ所司代はその支配下におかれていました。
  これに対して、江戸町奉行は、呉服橋に北町奉行所、数寄屋橋に南町奉行所がおかれ、各々与力25騎、同心約120名を配下におき、江戸の治安を守る警察、消防の他に、行政、司法、立法など、現在でいう東京都知事、裁判所長官、警視総監、消防総監などを兼ねていました。
  有名な大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ:1677〜1752)は、山田奉行のときに紀州領との領地問題で公平な裁きをしたことから、紀州藩主から将軍になった徳川吉宗に見いだされて江戸町奉行に抜擢されたという逸話があります。しかし、遠国奉行から江戸町奉行は順当な出世コースであり、特段の抜擢でもないようですが、1920石の旗本から後に1万石の大名に異例の出世をしました。
  有名な「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元(とおやまさえもんのじょうかげもと:1793〜1855)は、北町奉行の後に南町奉行になった珍しい経歴の持ち主ですが、本当に入れ墨をしていたのかどうか疑問視されています。また、南町奉行の鳥居甲斐守耀蔵(とりいかいのかみようぞう:1796〜1873)が天保改革の強行派だったため、町民たちは鳥居耀蔵が悪玉で、それに対抗した遠山景元を善玉にしたのだとの説もあります。当時の裁判のほとんどは吟味方(ぎんみがた)与力が行って、結果をいい渡すのが奉行の役割だったというのが実態で、大岡忠相にしろ、遠山景元にしろ、巷間に流布されているような人情裁きはなかったというのが定説です。

(篠井純四郎)

 
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2014.05.13
第22回 石(こく)と俵(ひょう)/金貨と銀貨

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石(こく)と俵(ひょう)
  武士の俸禄(家禄、給料)が100石とかに200石とか表現されますが、ときには「石」ではなく100俵とか200俵とか、「俵」で表されることがあり、混乱しがちです。
  江戸時代の経済は米でした。したがって武士の俸禄は米で支給されていました。この支給方法に「知行取り(ちぎょうとり)」と「蔵米取り(くらまいとり)」がありました。知行取りは、最も格式の高い支給方法で、一定の知行地(領地)を与えられて、そこから得られる年貢を取り立てることができました。ですから「石」で表し、蔵米取りは米の現物支給でしたから「俵」なのです。また、下級武士は銭で支給されていた者も多くいました。
 
  昔は田畑や屋敷などの土地面積に一定の計数をかけて米の生産高に換算し、石単位で表しました。これを石高(こくだか)といいます。大名や武士の俸禄は、基本的には石高で表されました。この石高は土地面積の計測によって、また土地の優劣によって生産高に大きな差が生じました。知行取りは、領地を管理しますから警察権、裁判権などを持ち、必要に応じて領地から人夫を徴用することができました。それだけに、大名や高級武士でなければ知行地の管理ができなかったわけですが、また天候不順などにより米の作柄が減少すれば収入も減り、毎年一定ではありませんでした。
  また、時代によって違ってきますが、主として当時の年貢の収めかたは、玄米1石を1両に換算し、ある一定の税率をかけて収めさせました。多くは農民が6割、領主が4割で、これを「四公六民」といいました。たとえば家禄が400石といっても、それは表高(額面)であり、実際の収入は160石でした。したがって、旗本の多くが500石以下でしたから、役職につかない武士の生活は非常に苦しかったといいます。蔵米取りは、幕府あるいは大名家の蔵から米を現物支給される方法でしたから、50石とか100石といわず、50俵とか100俵など俵で表示しました。この蔵米は、年3回に分けて支給されたため「切り米」とも呼ばれました。
  また、下級武士などは現金支給でした。時代劇などに出てくる下級武士を町民たちが「サンピン」と呼びますが、この言葉は、俸禄が3両1人扶持(さんりょういちにんぶち)の貧乏な武士を侮蔑した言葉で、3両の3(サン)と1人扶持の1(ピン)からきています。このピンはサイコロの1の目ですが、もとは「ピンからキリ」のピンです。長崎に伝来した「ウンスンかるた」の数字の1がピンで10は十で十字架だからキリストのキリなのです。なお、一人の扶持は1日米5合の計算で支給されていましたから、1年間で1石8斗になる勘定です。日本人が1年に食べる米の量は、およそ玄米60sくらいで、おおよそ1石(150s)あれば一人が養えると想定されて決まったようです。
  江戸時代の諸藩は、収納した米をより有利な形で換金するために、江戸や大坂などに蔵屋敷を設けて、藩内から米を運び込んで市中の米市場に売却しました。これも「蔵米(くらまえ)」と呼びました。これに対して、蔵屋敷を経由せずに商人の手で集荷される米を「納屋米(なやまい)」と呼びました。大相撲の国技館は両国の以前は蔵前にありましたが、ここは徳川幕府の米蔵があったところです。そこから蔵前の地名がついたといわれています。
  当時、幕府の米蔵は浅草にあって、蔵前には「札差(ふださし)」と呼ばれる商人たちが軒を並べ、旗本や御家人に支給される米の仲介や、米を担保に高利で金銭を貸し付けて大儲けしました。特定の武家と契約した札差は、「蔵宿(くらやど)」と呼びましたが、江戸も末期になると武士の生活も苦しかったから、この米を担保に借金をしていて、蔵宿とのもめ事が絶えなかったようです。武士には体面がありますから、蔵宿の町民に頭を下げることはできませんから、代わりに頭を下げたり脅したりする浪人などに依頼しました。この者たちを蔵宿師と呼びましたが、これに対抗して蔵宿の方も屈強な人物を用心棒として雇ったりしました。武士の中には10年、20年後の蔵米を担保にする者も出てきて、幕府は「棄捐令(きえんれい)」という借金をチャラにする政策を取りました。現代の法律でいう「自己破産」よりもっとおいしい政令でしたが、この給米制度と金銭との二重構造は、結果的に幕藩体制の崩壊に繋がったのです。現在、日本政府は「国債」という莫大な借金を抱えています。政府が「棄捐令」を発するのではないかと国債を買っている人は、さぞご心配でしょう。

金貨と銀貨
  時代小説などで「小判」や「一分金(いちぶきん)」などという貨幣が出てきますが、ときどき「一分銀」という言葉が登場しますから混乱します。当時は、東日本では金貨建て、金貨支払いで、西日本では銀貨建て、銀貨支払いが普通だったことからきているのです。

 江戸時代の貨幣制度の特徴を端的に表した言葉に「東国の金遣い、西国の銀遣い」があります。それは、東日本には金の産地が多かったのに対して、西日本には銀の産地が多く、さらには中国との貿易で銀貨を使用した慣行があったこと、などによるものと考えられています。なお、少額貨幣は銭(ぜに)と呼ばれる銅貨が使用されました。
  金建てでは、大判、一両小判、二分金、一分金、二朱(しゅ)金、一朱金などが使われましたが、銀建てでは、丁銀(ちょうぎん)、豆板銀(まめいたぎん)という形も重さも一定ではない「秤量貨幣」が使われていました。この秤量貨幣は、いちいち目方を量って使うので不便でしたから、後に一分銀、二朱銀、一朱銀、12枚で1両になる五匁銀(ごもんめぎん)などの定位貨幣も鋳造されました。流通量の多い銭貨については、寛永通宝という銅貨に統一されて各地の銭座で鋳造されました。
  大判金貨は10両に相当しましたが、ほとんど流通せず、贈答品など儀礼的なことに使われていたにすぎません。小判や一分金などの金貨は、江戸金座、京都金座、駿河小判座、佐渡小判所という鋳造所で造られていましたが、元禄8年(1695)以降は江戸に集中され、現在の日本銀行本店の場所に「金座」という金貨を鋳造した役所がありました。
  江戸時代中期から後期になると、物価上昇が激しくなり幕府の財政も悪化し、幕末までの間に8回も金貨銀貨の改鋳が行われ、材質が悪化しました。江戸時代最後の万延小判は、大きさも極端に小さく、純金量も江戸時代初期に造られた慶長小判の1割強しかありませんでした。
  秤量貨幣を別にすると、江戸時代の貨幣は四進法が基本で、 1両は4分、1分は4朱、すなわち1両は16朱になります。また、1両は銀60匁で銭4000文(もん)、1分は1000文としており、1000文のことを1貫文(いっかんもん)といいました。銭は十進法で、一文銭の他に波銭と呼ばれる銭に波の模様が入った四文銭があり、これが広く使われていました。銭を「銭さし」と呼ぶ紐に96枚を通して100文として通用していました。
  また、銀貨を鋳造する「銀座」は江戸、京都、大阪、長崎にありましたが、寛政12年(1800)江戸に統合され、現在の銀座・京橋にありました。各地にある「銀座通り」は東京の銀座通りにあやかってつけたものでしょうが、以前どこかの村の通りに「銀座通り」と付けたら、「知識人」などと称している連中からクレームがついたという下らない話がありました。いっそうのこと「金座通り」にすればよかったのでしょうか。
  余談ですが、「下らない」という言葉の語源ですが、江戸時代には京都を中心とした関西から江戸に入ってきた物を「下りもの」と呼んでいました。京都には天皇がおりましたから「上(かみ)」で、それに対比して江戸を「下(しも)」と呼び、天皇を奉る意味合いもあって、京都から江戸に持ち込まれた品物は「極上物」という意味をもちました。そこから「下らない」という言葉が「下等品、つまらないもの」という意味に使われるようになったのです。明治以降は天皇が東京に住んでおられるため、東京が上(かみ)で関西が「下(しも)」になりました。そういえば、地方から東京見物をする人を「お上りさん」と呼んだ時代もありました。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2014.04.15
第21回 御三家と御三卿/旗本と御家人

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御三家と御三卿
  「御三家」という言葉をよく耳にします。とかく日本人は「歌手の○○御三家」とか「ポルノ俳優の○○御三家」などと、この言葉を使いたがるのですが、そもそもは、徳川家康が徳川家の子孫が絶えないように尾張、紀伊、水戸に自分の子供を領主(大名)として配置しましたが、この三家を特に「御三家」と称したことからきています。同じ江戸時代において「御三卿」という言葉がありましたが、「御三家」に比べてあまり知られていません。知っていても混同している人も少なくないようです。「御三卿」とは、家康にならって8代将軍吉宗が家康にならって自分の三人の子供に別家をたてさせ、それぞれ田安家、一橋家、清水家と称し、以降、この三家から将軍を出すことにしました。この三家は「御三家」のような大名ではなく、あくまでも分家扱いでした。

  徳川家康は9男義直(よしなお)に尾張61万9千5百石、10男頼宣(よりのぶ)に紀伊55万5千石、11男頼房(よりふさ)に水戸28万石が与えて大名とし、これが御三家と呼ばれるようになりました。家康の子供は、正式には11男5女がいたと言われていますが、家康が亡くなるまでに生存していたのは、3男秀忠(2代将軍)、6男忠輝(ただてる)、9男義直、10男頼宣、11男頼房の5人だけでした。このうち、6男忠輝は越後高田の長沢松平家に養子に入ったのですが、行いが悪く改易(領地没収)させられました。
  領地を与えたとき、幼い領主を補佐するため「附家老」と呼ばれる家老職を特に任命しました。尾張家には成瀬正成、竹越正信、紀伊家には安藤直次、水野重央、水戸には中山信吉が任命されました。なかには、すでに大名格の者もいましたが、大名と同じ扱いをするという条件で、それぞれ3万石前後の所領を与えられて仕えました。しかし、時が経つにつれてこの約束は守らなくなりましたので、明治維新の際に新政府に抗議して大名として認められ、侯爵とか伯爵などの爵位をもらい貴族の仲間入りができました。
  8代将軍徳川吉宗は、次男の宗武(田安徳川家)、4男宗尹(一橋徳川家)、吉宗の長男家重(9代将軍)の次男重好(清水徳川家)を別家させました。この三家は、当主が公家の位で従三位(じゅさんみ)だったため、この官職は宮中の各省の長官(卿)に任じられる位でしたから「御三卿」と呼ばれました。
  「御三卿」家の創設は、代が下るに従い、将軍家と「御三家」の血縁が薄くなったから、「将軍により近い血筋から将軍候補者を立てる」ことを目的としたものです。最後の将軍第15代徳川慶喜は一橋家の当主でした。しかし、慶喜は水戸家の生まれで一橋家に養子に入って、後に徳川宗家を継いで将軍となったのです。血筋は水戸家でありますが吉宗の血筋ではありません。代が下るに従い、徳川御三家の当主の中には知的障害者も出てきたり、男子が病弱で藩主の人が務まらなかったりで、他藩の子供を養子にしたりすることが多くなってきたため、家康の血が入っていたかどうか、いずれにしても血は薄くなっていたことは間違いありません。徳川の血が薄くなっていくといって、吉宗が心配したのもあながち間違いではなかったのかもしれません。
  しかし、吉宗の将軍就任時、尾張家に将軍職を渡さないための策略だったという説があります。正徳6年(1716)、7代将軍家継が亡くなったとき、尾張の徳川継友との後継者争いで吉宗が継友を毒殺したという噂が流れ、尾張家との関係が悪くなったことが理由だといいます。落語や講談では、御三家筆頭の尾張徳川継友に将軍職にとの話があったとき、継友はすぐに承諾してはあまりにも現金だと思われるので一旦は辞退する振りをした。ところが、次に控えていた吉宗が「それならば」と引き受けてしまった。継友は、自分が辞退すれば当然吉宗も辞退して、結局は自分が将軍職を継げるものと信じていたのですが、これで将軍職を逃したという笑い話です。遠慮も時と場所と相手によるという教訓ですね。

旗本と御家人
  時代小説などで「旗本(はたもと)」とか「御家人(ごけにん)」という言葉が出てきます。御家人とは平安時代から貴族や武家の棟梁に仕えた家人(けにん:家来)を指す言葉だったので、どうも誤解して脳細胞が混乱するようです。
  旗本とは、武将の直属の家臣(直参:じきさん)呼ばれた武士ですが、江戸時代には一般的に100石以上1万石未満の武士で、儀式の際には将軍に拝謁できた者(御目見得:おめみえ)を旗本と呼びました。御目見得できない下級武士のことを御家人と呼びました。とはいえ、極めて少ない例ではありますが例外はありました。
 
  「旗本八万騎」という言葉がありましたが、実際に旗本は8万人いたわけではありません。「大江戸八百八町」とか「嘘八百」といったように、たくさんという意味に受け取るべきでしょう。江戸時代の旗本はおよそ5000人で、御家人をあわせても2万人くらいでした。もっとも、その家来や使用人などを含めれば8万人くらいにはなるかもしれません。また、旗本でも禄高(給料)が3000石以上の者を大身旗本と呼よびましたが、大身旗本と呼ばれた者はおよそ100人くらいで、実に9割が500石以下でした。御家人は、戦場においては徒士(かち:歩行で戦う下級の武士)で、馬に乗って戦う侍が士官とすれば下士官、兵に当たります。平時においても、馬や駕籠にも乗ることが許されませんでした。
  旗本の役職は、江戸城留守居役や側用人、御側御用取次、あるいは奉行職などおよそ200ちかくあり、役職につくと役料という手当が付きました。また御家人の職は250くらいありましたが、人数が限られていましたから、およそ半数に当たる1万人は職がありませんでした。家禄の少ない旗本や御家人は、役職につけなければ生活が苦しく、内職をしなければ到底やっていけなかったようです。武士の内職は禁じられていましたが、幕府も黙認していたようです。江戸後期になると、御家人の身分を「御家人株」といって売買するようになりました。
  無役の者のうち、3000石以上の者を「寄合席(よりあいぜき)」、それ以下の者を「小普請組(こぶしんぐみ)」に入れられ、頭(かしら:責任者)の管理下に置かれました。寄合席の旗本は高給取りですから遊んで暮らしていましたが、小普請組のなかではほとんどが給料が少ないので、役職に就こうとして就職活動をしていたようです。平時では何もなかったから、幕府はおよそ1万人の無職者に給料を払っていたわけです。したがって、無駄飯を食べていた者も多く、次第に財政が逼迫していったのは当然のことでした。江戸幕府の体制が二百数十年以上続いたのは奇跡だったのです。
  現在の会社組織でしたら直ちに倒産することでしょう。その結果、失業者が増えて失業保険や生活保護費の支給額も増えて、国の財政がひっ迫して税金を上げざるを得なくなり、ますます国民の生活が苦しくなることでしょう。莫大な国債という借金を抱えた日本の現状とどこか似ているのです。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2014.01.10
第20回 将軍と征夷大将軍/譜代と外様

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将軍と征夷大将軍
  鎌倉幕府や徳川幕府の「将軍」と、有名な坂上田村麻呂などの「征夷(せいい)大将軍」はどう違うのか、あるいは征夷大将軍の称号は源氏だけに与えられるものだとか、いろいろな説もあって混乱しますが、幕府の将軍とは征夷大将軍の略です。また、征夷大将軍の称号は源氏だけに与えられたものではありません。
 
  征夷大将軍とは、本来東北の反乱軍を平定するのが役割でした。坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ:758〜811)が有名ですから、最初の征夷大将軍だと思われがちですが、延暦13年(794)に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)が任命されたのが最初で、坂上田村麻呂は延暦16年(797)に任命されていますから2代目です。
  もともと征夷大将軍は、蝦夷(えみし:現在の関東、東北)の朝廷の力が浸透していなかった地方に遠征する部隊の長です。中国、四国、九州などに派遣される部隊の長は「征西(せいせい)大将軍」と呼ばれました。「純友の乱」で瀬戸内海に派遣された藤原忠文などが征西大将軍として有名です。しかし、鎌倉以降は征夷大将軍の称号だけが使われるようになりました。
  この征夷大将軍の称号は代々源氏に与えられる称号だという人がいます。天下を取った織田信長は平氏の出だから、また豊臣秀吉は百姓の出だから征夷大将軍の称号を与えて貰えなかったという話もあります。源氏では、頼朝や義経の従弟にあたる木曾義仲(源義仲)が寿永3年(1184)に任命され、「旭将軍」と呼ばれました。その後は頼朝、頼家、実朝と続きますが、それ以降藤原頼経や藤原頼嗣という摂家が将軍に任命されていますし、摂家の次は親王が将軍に任命されています。このように、征夷大将軍は源氏の専売特許・登録商標ではないのですが、武家の棟梁と称された八幡太郎源義家の系統が征夷大将軍にふさわしいという風潮が当時はたしかにあったと思われます。
  そこで、それまでは藤原姓を名乗っていた徳川家康は、関東に下る際に源姓を名乗るようになりましたが、それも「征夷大将軍」の称号を得るためだったという説がありますし、また、建武2年(1335)足利尊氏は北条時行の追討を命じられた際に「征夷大将軍は代々源平の者が任官しているから、自分もその称号が欲しい」と要求したという逸話もあります。それらのことを考え合わせるとき、徳川家康が藤原から源に姓を改めたことや、九州の島津家の祖である島津忠久や、大友家の祖である大友能直が頼朝の隠し子だったという伝説を作り出したのは、清和源氏がブランドであり憧れの的だったからに違いありませんが、家名を売りものにする当時としては笑いごとではなかったのでしょう。そういえば、「平成の誠意大将軍」で一世を風靡したタレントがいましたが、これには笑いました。

譜代と外様
  徳川将軍家や大名などの「譜代」とか「外様」という言葉はよく知られています。譜代とは何代にも亘って主家に仕えた家臣をいいますが、「外様」という言葉は徳川時代になってから使われ出したことはあまり知らないようです。戦国時代以前までは多くの武士たちは主従関係において縛られることが少なく、金銭や領土など恩賞の多寡によって味方しましたから、あくまでも「郎党(家来)」と「味方」の区別であって、譜代とか外様とかいうような区別はしなかったようです。
  徳川幕府においては、関ヶ原の合戦以前から家康に従っていた大名を「譜代大名」と呼びましたが、時代が下っていくにつれて例外ができ、また譜代大名も若干増えました。なお、大名の中でも家康の男系子孫は「親藩」と呼びました。

 江戸時代における譜代大名とは、関ヶ原以前から徳川家康に臣従していた大名とはいえ、ほとんどが10万石から30万石程度の小大名でしたが、地方の要衝に配置されて外様大名の監視役を担っていました。また、老中(ろうじゅう)など幕閣の重要な役職につくことができましたが、例外があって、老中になった田沼意次(たぬまおきつぐ)などは一介の小姓上がりだったし、高崎藩主となった間部詮房(まなべあきふさ)は猿楽師(能、狂言の前身)でしたが、大名となり譜代大名扱いされました。
  また、堀田正盛は江戸初期の老中でしたが、堀田家は関ヶ原の合戦以降に徳川家康に臣従した武将であり、堀田家とは縁戚関係にあった淀藩稲葉家の先祖は、譜代大名として老中を出す家柄でしたが、関ヶ原の合戦で西軍に付き、途中で寝返った功績で出世しました。稲葉正成の妻が三代将軍家光の乳母で、春日局(かすがのつぼね)と呼ばれた婦人だったから、その縁で出世したと見られています。どちらも外様大名の陪臣(将軍の家来の家来)でありながら、旗本(将軍直属の家来)に取り立てられて大名となった例です。
  江戸後期になると、信州の真田家のように外様大名でも老中になった例はあり、御三家(尾張、紀伊、水戸)、御三卿(田安、一橋、清水)、御家門(越前藩、会津藩、越智松平家)などの親藩と養子縁組をすると親藩待遇となることがありました。ただし、親藩は老中にはなれませんでした。
  寛政の改革で有名な松平定信(1579〜1829)は8代将軍徳川吉宗の孫ですが、白河藩松平家に養子に入りました。松平家は家康の異父弟が始祖ですが、親藩ではなく譜代大名だったので老中になれました。このように、江戸幕府は譜代大名によって政治が行われてきたのです。
  第11代将軍家斉(いえなり)は、生涯に55人の子供をつくり大名たちに縁組みをさせましたから、親藩待遇の大名が増えたことはたしかです。だから55人の子持ちである家斉が歴史上最高の精力絶倫男といわれています。しかし、第52代の嵯峨天皇(786〜842)は50人の子供をつくって源(みなもと)の姓を与えて臣下に落としました。いわゆる嵯峨源氏と呼ばれる源氏の流れのひとつです。そのまま皇族にさせていたら朝廷は破産するから、現代でいうリストラをしたわけです。記録に精力絶倫男といわれている徳川家斉は69歳で亡くなったのですが、嵯峨天皇は57年の生涯だから、単純計算すると嵯峨天皇の方が絶倫男なのです。
  ちなみに、徳川家では将軍の娘が嫁ぎますと新しく朱塗りの門を造りしきたりがありました。現在残っているのは東京本郷にある東京大学の赤門だけですが、ここは加賀百万石で有名な前田家の江戸屋敷だったからで、こういった赤門は明治の大震災まではたくさんありました。一見、赤門は現在では非常に目立っていますが、江戸時代の各大名の江戸藩邸の門は、日光東照宮のような非常にきらびやかだったという説がありますから、当時は周囲になじんだ色だったのかもしれません。
  余談ですが、私が生まれ育った家の門は通称「徳利門」と呼ばれていました。門扉に徳利(とっくり:現在では酒の席で出される燗をした酒が入った容器ですが、つい最近まではしょう油や酒、油などを入れた、もっと大きな容器でした。今ではペットボトルがその役をとってかわりました)をぶら下げていたからですが、人がやっと通れるほどの小さな門で老朽化が進み傾いていましたから、出たり入ったりの際には徳利の重さで門扉が閉まる便利なものでした。いわば半自動扉なのです。江戸時代でも貧乏な下級武士の家に多く見られたといいますが、なかなか風情がありますね。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2013.12.12
第19回 長篠の戦いと長久手の戦い/三方ヶ原の戦いと関ヶ原の戦い

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長篠の戦いと長久手の戦い
  どちらも有名な戦いですが、名前が似ているので、どこで誰と誰が戦ったか、その歴史的な意義など混乱している人も少なくないようです。もう一度、脳細胞を整理してみましょう。
  「長篠の戦い」とは、織田信長と徳川家康の連合軍が武田勝頼(武田信玄の嫡男)の軍を破った合戦で、武田軍団の精鋭が全滅し、織田信長にとっては天下統一のための最大の障害がなくなった戦いです。
  「長久手の戦い」とは、豊臣秀吉と、織田信長の次男信雄と徳川家康の連合軍との合戦で、秀吉と家康の直接対決はこの一戦だけでしたが、決定的な勝敗はつきませんでした。
 
  天正3年(1575)5月、武田勝頼の軍1万数千人が徳川家康に属する長篠城を包囲しました。武田家の武将奥平信昌が武田信玄が亡くなると徳川方に寝返ったため、信玄の後を継いだ勝頼は信昌の居城である長篠城を攻撃しました。これが長篠の戦です。この報に接した徳川家康は織田信長に援軍を求め、家康の5千人と信長の3万人の軍勢で長篠城に近い設楽原で激突しました。この合戦で武田信玄以来の精鋭部隊である騎馬軍団は、織田信長の鉄砲隊によって壊滅しました。これによって鉄砲の威力が証明され、騎馬軍団から鉄砲を主力とした戦法に転換されるようになり、戦法の革命ともいうべき戦いだったといわれていますが、最近の学説では疑問がもたれています。
  長篠城が包囲されたとき、奥平信昌の家臣鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が城から脱出して家康に知らせ、援軍到着を一足先に知らせるべく城に帰る途中武田軍に捕まりました。城内の兵に「援軍は来ない」と嘘をいえば命を助けてやるといわれて高い櫓に上りましたが、強右衛門は「援軍が来るから頑張れ」と叫んだため、その場で殺されたという逸話があります。
  天正12年(1584)3月、織田信雄は、秀吉と共に弟の信孝を信長の後継者として擁立した柴田勝家を討ちましたが、その後秀吉が信雄に臣下の礼をとるよう命じたため、徳川家康に援軍を求め豊臣秀吉と戦うことになりました。これが長久手の戦いです。
  家康は秀吉側の森長可(本能寺の変で織田信長と共に死んだ森蘭丸の兄)の軍を破り、小牧山城を占拠しました。その後、戦場は長久手において両軍が激突し、この戦いは家康軍が優勢でしたが、織田信雄が秀吉と単独で和睦したため、家康も戦う名目がなくなり、戦は終わりました。この戦いは小部隊による局地戦でした。戦いそのものは家康が優勢だったとはいえ、戦略的には秀吉の勝利だったという見方があります。こうして、天下の趨勢は秀吉のものとなっていった歴史上重要な意味をもつ戦いでした。
  この小牧・長久手の戦で、秀吉軍の池田勝入斎恒興を討ち取った永井直勝は、刀・脇差・槍と共に黒糸威の甲冑も分捕りました。これが永井家の家宝となりましたが、天下が徳川のものになったある日、池田輝政(恒興の子)は当時5000石だった永井家を訪れて、父恒興の甲冑を見て「父ほどの者を討ってもたった5000石とは」といって涙を流した。これを伝え聞いた家康は、永井直勝に5000石を加増して1万石の大名にしたという逸話があります。戦国の世が治まった直後の話だから、いかにもありそうな話ですが、後世、家康を称えようとして、権力者に媚びる者が作った話かもしれませんね。

三方ヶ原の戦いと関ヶ原の戦い
  「関ヶ原の戦い」は、徳川幕府の創設にかかわる大切な役割を果たした戦いで、歴史教科書にも登場しますから、覚えている人も多いのですが、それ以前に「三方ヶ原の戦い」と呼ばれる戦がありました。この戦いも学習したはずですが、覚えている人は少ないようです。じつは、ここで奇跡が起きなければ天下の形勢が全く分からなくなり、織田信長も天下を取れず、また徳川家康などは歴史教科書にも登場しなかったかもしれません。それほど重要な戦いでした。
  「三方ヶ原」とは、元亀3年(1572)12月22日、徳川家康が織田信長の援軍と浜松において武田信玄と戦って敗北した場所です。もう少しで家康の居城である浜松城などは、まさに風前のともしびの状況でしたが、信玄が発病したため九死に一生を得たのです。家康が陣中で死を覚悟したのは、この戦いと「大阪夏の陣」で真田幸村に攻められた戦いであるといわれています。
  また、「関ヶ原」とは、慶長5年(1600)9月15日、全国のほとんどの大名が豊臣方(西軍)と徳川方(東軍)に別れて、美濃国(岐阜県)において激突した場所です。この戦いで東軍が勝利して、徳川家康による天下統一が実現したので、「天下分け目の合戦」とも呼ばれています。

 甲斐国古府中(甲府市)を出発した武田信玄は、2万8千の兵力で天竜川沿いに遠江国(静岡県)に入りました。これに対して徳川家康は、浜松城に立てこもって籠城作戦に出ました。籠城は味方の援軍が背後から攻撃してくるのを待つか、相手が兵糧不足や兵の疲弊による戦力低下を待つかですが、この時の家康は武田軍に対して打つ手がなかったというのが実情でした。ところが、武田軍が裸同然の浜松城を横目で見ながら通り過ぎようとしたため、好機と見た家康は城を出て背後から襲撃しましたが、三方ヶ原において完膚無きまでに叩かれて、這々の体で浜松城に逃げ帰りました。家康は逃げる途中馬上で怖さから脱糞したとさえいわれています。浜松城に帰った家康は、城門を開いて武田軍を待ち構えるという捨て身の作戦に出たのですが、ここで奇跡が起きました。武田軍が突然引きあげていったのです。じつは武田信玄が急病を発したためだといわれていますが、徳川方の鉄砲による狙撃で死んだという噂もあって真偽のほどはわかりません。
  武田信玄は元亀4年(1573)4月12日死亡したといわれています。武田信玄の跡を継いだ勝頼率いる武田軍団は、その後「長篠の戦い」で織田信長の鉄砲隊により壊滅しました。これによって徳川家康は武田の本拠地である甲斐の国(山梨県)に攻め込んで武田家を滅亡させました。武田武士の生き残った将兵の多くは、家康の命令で徳川四天王の一人である井伊直政に預けられましたが、これは武田軍の軍法などを吸収するためであるといわれています。井伊直政は武田軍のまねをして甲冑や装備品を赤い漆で塗り、全軍を真っ赤に統一しました。これを「赤備え」といいますが、目立つので的に狙われやすいため、決死の覚悟がいる戦法で、これも武田軍の軍法から取り入れたものです。その後の数々の戦いで「井伊の赤備え」といわれて恐れられました。しかし、井伊の赤備えに勝る勇猛果敢な「赤備え」部隊は、大坂の陣で有名な真田幸村の軍であるといわれています。ちなみに真田家は武田信玄の武田二十四将の一人でもあり、「赤備え」部隊の本家です。幸村はいわば武田軍最後の武将だったといえます。
  関ヶ原の戦いは、西軍の大将は毛利輝元で8万、東軍は家康が大将で10万の兵力で激突しました。関ヶ原における西軍の布陣は、笹尾山に石田三成の軍、天満山に宇喜多秀家の軍、南宮山に毛利秀元の軍、松尾山に小早川秀秋の軍などで、完璧な布陣をして東軍を囲んだのでしたったが、小早川秀秋の裏切りで西軍が敗北しました。小早川秀秋は裏切りの功で岡山55万石の大名になったのですが、その後異常な行動をするようになり、関ヶ原の合戦の2年後に21歳で亡くなりました。小早川秀秋に直接背後から攻められた大谷吉継の祟りだと噂されました。
  また、徳川家康の三男徳川秀忠(第2代将軍)は、徳川本隊3万8千の兵を率いて中山道経由で関ヶ原に向かいましたが、信州上田城の真田昌幸・幸村父子を攻め、逆に多くの兵を失い城も攻略できず、結果的に足止めをくって天下分け目の戦いに間に合いませんでした そのため、関が原では豊臣家恩顧の大名が東軍の主力になって戦ったため、勝ったといっても、西軍から没収した630万石の所領の8割は、福島正則などの豊臣家恩顧の大名に論功行賞として与えざるを得なくなり、戦後の経営が困難になったのです。
  一説には、豊臣家恩顧の大名軍に先陣をまかせ、彼らが敗退したら秀忠の徳川本隊を投入しようと考え、わざと到着を遅らせて兵力を温存していましたが、あまりにも早く決着がついて本隊を投入できなかったのだという説もあります。しかし、もし先陣の大名軍が負けたら、勝ちに乗じて意気軒昂な西軍8万に加えて豊臣恩顧の武将が寝返えって加わることは明白であり、それに対して徳川本隊3万8千の兵だけでは勝てるわけがありません。これは家康を贔屓する者による作り話でしょう。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2013.10.07
第18回 富士川の合戦と宇治川の合戦/逆落としと坂落とし

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富士川の合戦と宇治川の合戦
 どちらの戦いも有名ですから名前ぐらいは覚えている人も多いようですが、「歴男」や「歴女」でないかぎり、誰と誰が戦ったか、あるいはその歴史的な意義まで覚えている人は少ないようです。
  「富士川の合戦」とは、治承(じしょう)4年(1180)に平維盛(たいらのこれもり=清盛の孫)が源頼朝追討のため富士川において頼朝軍と戦った合戦で、この戦いに敗北した平家は大打撃を受け、平家没落の大きな要因となった戦いです。
  「宇治川の合戦」とは、寿永3年(1184)に起きた源義仲(みなもとのよしなか=頼朝の従兄弟)と頼朝軍の戦いです。この戦いに敗れた義仲は京を追われました。どちらも頼朝の鎌倉幕府誕生には重要でかつ歴史に残る大きな戦でした。

  治承4年(1180)、頼朝の挙兵を聞いた平清盛は、孫の平維盛を大将に、また弟の平忠度(たいらのただのり)を副将として派遣しましたが、鎌倉に向かう途中の頼朝軍と富士川で遭遇しました。このとき、平維盛軍は、水鳥の羽音を敵の鬨の声と間違えて敗走してしまいました。これによって、数では圧倒的だった平家軍が破れましたが、実際は武田太郎信義の軍が接近しており、水鳥の羽音で武田軍の夜襲を察知して退いたというのが本当のようです。武田信義は源氏の流れで、有名な「川中島平の合戦」で上杉謙信(うえすぎけんしん)と戦った武田信玄(たけだしんげん)の祖先です。また、一説によりますと、その年は近畿地方が大飢饉に見舞われて、平家軍の兵糧が不足しており、戦意が喪失していたともいわれています。
  平維盛は学識と端麗な容姿から光源氏の再来かといわれました。また、平忠度は歌人としても有名でした。忠度の歌が『千載和歌集』に収められた経緯には有名なエピソードもありますが、JRが国鉄と呼ばれていた時代に、無賃乗車する人を「さつまのかみ」と呼んでいたといいます。平忠度の官職が薩摩守(さつまのかみ)だったから、さつまのかみ(薩摩守)=ただのり(忠度)という洒落です。
  「宇治川の合戦」は、後白河法皇の院宣(いんぜん=命令)を受けた頼朝が、弟の源範頼(みなもとののりより)と源義経を追討軍として派遣し、数万の軍勢でたった千人の義仲軍を宇治川で破った戦いです。ちなみに、先の富士川の戦い以降、頼朝自身は出陣せず、この二人を総大将として戦わせていました。この戦いで、藤原源太景季(かげすえ)と佐々木四郎高綱(たかつな)が宇治川を渡り先陣を争いましたが、名馬麿墨(するすみ)にまたがった景季に、主君頼朝から拝領した愛馬生喰(いけつき)にまたがった高綱は、「馬の腹帯がゆるんでおるぞ」と景季に声をかけ、景季の注意がそれた隙に追い抜いたと言われています。高綱は馬の足にからむ綱を断ち切り、宇治川の急流を渡って一番乗りしました。明治の名将乃木希典(のぎまれすけ)はこの高綱の後裔だそうです。
  佐々木高綱は先陣をきったことで賞賛されましたが、小細工を弄した高綱に対する非難もあります。これを小細工とみるか、機転と受け止めるかは論議の分かれるところですが、その後の処遇をみれば、佐々木高綱の方が優遇されたようです。まあ「勝てば官軍」でしょう。「勝てば官軍、負ければ賊軍」とは、明治維新の際に官軍と称する連中に負けた幕府軍は賊軍と呼ばれたことからきた言葉ですが、江戸に乗り込んだ「官軍」と称する連中の横暴はあまり語られません。近年では、太平洋戦争後の戦勝国による「東京裁判」も、あまりにも不公平な裁判だといわれていますが、不幸にも誤解されて戦争犯罪人にされた人の名誉回復にも日本政府は動こうとしません。つくづく戦争には負けたくないものですね。
 
逆落としと坂落とし
  源義経の「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」は有名ですが、源義仲の「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の坂落とし」と言葉がよく似ていますから混乱しがちです。

  寿永3年(1184)2月、都落ちした平家を追って源範頼、源義経兄弟の軍勢は一の谷において戦いますが、このとき義経は、搦め手(裏)の大将として一の谷に向かいました。途中、軍を二手に分けて、義経は自ら数十騎を引きつれ山の中を大きく迂回し、一の谷の裏山の険しい断崖に出ました。試しに二頭の馬を落としてみると、一頭は足を折ったがもう一頭は無事に降り立ったので、うまく手綱を取れば大丈夫だといって崖を駆け下り奇襲は成功したといわれています。この作戦は「鵯越の逆落とし」という有名な話で、この峠は現在の神戸に近いところですが正確な位置は不明です。
  目印に「源氏の白旗」を付けた馬と、平氏の赤旗を付けた馬とを落としたら、赤い旗のほうの馬が足を折り、白い旗の方が無事に降り立ったので、大勝利間違いないといって攻撃したという話がありますが、『平家物語』には目印を付けたとは書いてありません。
  当時の戦法としては、堂々と名乗りを上げて一騎打ちをするのが常識でしたが、義経は敵の背後から攻める戦法とか、騎馬武者の馬を弓矢で射る、あるいは軍船の漕ぎ手を射るなど、当時としては卑怯この上ない盗賊のような戦い方をしたという話もありますが、それは義経が幼いころに鞍馬山で育って武士としての教育がなされなかったから、しかたがないのだという人もいます。
  寿永2年(1183)木曽冠者(きそのかんじゃ)源次郎義仲(みなもとのじろうよしなか、1154〜1184)の軍と平維盛を大将とする平家軍とが加賀国と越中国の境にある砺波山で戦いました。このとき、倶利伽羅峠において、義仲は深夜に数百頭の牛の角に松明(たいまつ)をくくりつけて敵陣に追いやったため、浮き足立った平家軍は峠の坂道を追い落とされ、崖から谷底に転落して壊滅したと『源平盛衰記』にあります。こういった戦法は中国の故事にもあるといいますから、この作戦が事実かどうか不明ですが、平家軍は10万の軍勢の大半を失い都に逃げ帰えりました。大軍を失った平家は防戦のしようもなく西国に都落ちしました。
  源平の戦いで最も重要な役割を果たしたのは源義仲でしょう。義仲は都の混乱を鎮めて皇居の安全を確保した功績で「旭将軍」と称され、征夷大将軍の称号を授かって平家追討を命じられましたが、その空きに逆賊にされてしまい、黙って殺されるのを待つわけにも行かず、頼朝の大軍とわずかな兵を率いて戦い、討たれました。
  義仲は頼朝や義経の父である源義朝(よしとも)の弟義賢(よしかた)の子ですから、頼朝や義経には従兄弟に当たります。父の義賢は領地問題で悪源太(あくげんた)源義平(義朝の子・頼朝の兄)に討たれ、まだ幼かった義仲は信州の木曽で育ったので、通称木曽義仲と呼ばれました。
  頼朝や義経は義仲に追われた敗軍の平家をたたいたのですが、義仲は健在だったころの平家軍を破ったのですから、その武勇は義経などとは比べようもありません。また、都での悪行も伝えられていますが、日本人の判官贔屓が義経伝説を作り上げるために真の英雄を悪者にしたものであろうともいわれています。
  それにしても、後白河法皇はじめ公家たちの日和見主義的な言動に惑わされ続けた木曽義仲は気の毒です。こういった上役をもつ中間管理職の悲哀は昔も今も変わりないようですね。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2013.08.30
第17回 真名と仮名

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真名と仮名
 「仮名」という言葉を知らない人はいませんが、仮名に相対する言葉は「漢字」という人が多いのですが、「真名」と呼ぶことはあまり知られていないようです。「漢字」とは日本語文字の「カタ仮名」や「ひら仮名」と並んで使われる言葉です。
  日本語の文字は『古事記』によれば、5世紀に百済(くだら)から王仁(わに)という人渡来してきて千文字を伝えたのが、漢字伝来の始まりだといいますが、3世紀後半の遺跡から発見された土器片には「大」の文字が書かれてあり、もっと時代が遡るのではないかともいわれています。「仮名」が発明されたのは平安時代で、当初は女性が使うものとされていたようですが、『古今和歌集』で仮名が使われはじめてから、男性貴族社会にも使われるようになりました。この仮名の発明によって、『源氏物語』や『枕草子』をはじめとする宮廷文学が盛んになったのです。

 日本語の母音はア、イ、ウ、エ、オの五つですが、奈良時代はアとエ、イとウ、ウとオの中間の母音があり、母音は八つでしたが、平安時代になって五つの母音になったといわれています。仮名文字が発明される平安時代まで、人々は漢字によって苦労しながらも記録を残してきましたが、その最たるものが『古事記』(712)であり、『日本書紀』(720)です。また、全20巻、約4,500首におよぶ日本最古の和歌集である『万葉集』が編纂されていますが、これらの解読が困難なのは独特の漢字の用法によるものでしょう。『万葉集』は全文が漢字で書かれており、表意的に漢字で表したもの、表音的に漢字で表したもの、表意と表音の併記などさまざまです。編纂された頃は、まだ仮名文字が作られていなかったから、「万葉仮名」と呼ばれる独特の表記法を用いました。この万葉仮名は、平安時代になって平仮名や片仮名の基になったものと思われます。
  寛平(かんぴょう)3年(981)に史上初の関白藤原基経が亡くなり、宇多天皇(第59代天皇)は右大臣菅原道真(845〜93)を登用しました。藤原基経は、清和天皇(第56代)、陽成(ようぜい)天皇(第57代)、光孝天皇(第58代)、宇多(うだ)天皇の4代にわたって朝廷の実権を握り、宇多天皇のときに関白に就任しました。この際の詔に書かれた「阿衡」の文字にこだわり、宇多天皇に謝らせて藤原氏の権威を世に知らしめた事件がありました。阿衡とは古代中国の殷の時代の官職ですが、側近から実際は位は高いが職掌がないといわれたことで怒り、仕事を投げ出して政務を滞らせて、結果的には天皇を誤らせたわけです。このこともあって、宇多天皇は藤原一族が権力を握るのを嫌い、菅原道真を右大臣に登用したのだという説が強いようです。しかし、右大臣よりも上席の左大臣に藤原基経の子藤原時平(871〜909)を登用していますから、藤原氏一族の権力は非常に強かったわけです。
  当時、漢学の権威ともいわれた菅原道真は、律令制度の再建を目指していましたが、ライバル的な存在だった左大臣藤原時平は、菅原道真の政策には反対で、新しい政治改革の手段の一つとして仮名を奨励しました。その結果編纂されたのが、仮名書きによる最初の勅撰和歌集(※1)である『古今和歌集』だと言われています。これにより、それまで女性用の文字とされていた仮名が男性にも使われるようになって、和歌(※2)などが発展しました。仮名を奨励したのは、やはり菅原道真に対する嫉妬と対抗心からでしょうが、醍醐天皇(第60代・在位987〜930)に讒言して菅原道真を太宰府権師(副長官)に左遷しました。菅原道真は不遇のうちに延喜三年(903)死去しました。
  延喜9年(909)藤原時平も39歳の若さで亡くなるのですが、菅原道真の祟りだと噂されました。また、藤原時平と共謀して讒言したのが源光(みなもとのひかる)で、左遷された菅原道真の後任として右大臣になりましたが、鷹狩りに行って沼に転落し遺体が上がらなかったので、これも菅原道真の怨霊による祟りだと噂されました。宮中においても、醍醐天皇の皇太子である保明親王、皇太孫の慶頼王が次々と死去し、延長8年(930)には清涼殿に落雷があって多くの死傷者が出ました。醍醐天皇も体調を崩してその年に死去しました。朝廷はこれらの不幸は菅原道真の祟りであると恐れて、延喜23年(923)に右大臣に復帰させ、正歴4年(993)には正一位太政大臣の称号を贈られました。
  また、これも藤原時平の後任は弟の藤原忠平でしたが、時平と忠平兄弟の仲が悪く、また菅原道真と親交があったとされています。そのため菅原道真は死後ではありますが名誉回復できたのではないかともいわれています。宇多天皇と醍醐天皇の確執の犠牲になったのではないかという説もあって、上司の権力争いに巻き込まれる中間管理職の悲哀はいつの世も同じですね。

※1『私選和歌集』と『勅撰和歌集』
  『私選和歌集』の中でも有名な歌人が纏めたものに『六歌集』があります。西行の『山家集』、慈円の『拾玉集』、九条良経の『秋篠月清集』、藤原家隆の『壬二集』、藤原俊成の『長秋詠藻』、藤原定家の『拾遺愚草』です。そのほかに有名なものに『百人一首』があります。これは、藤原定家(1162〜1241)が、北条時政の娘婿で武将である宇都宮頼綱に依頼されて、京都嵯峨野の別荘の襖色紙に載せるために選んだのがきっかけで、天智天皇(第38代天皇、626〜671)から順徳院(順徳天皇、第38代天皇、1197〜1242)までの優れた和歌を年代順に集めた歌集です。
  私たちがお正月に楽しむ「かるた」の『百人一首』は、同じ藤原定家が選んだ『百人秀歌』と区別するため、宇都宮頼綱の別荘が小倉山にあったことから、『小倉百人一首』と呼びます。男性79人、内僧侶15人、女性21人の歌で、最も多いのが恋歌43首で、ほとんどが京、大和地方を舞台に詠んだ歌ですが、最も遠いのは清少納言の父の清原元輔が詠んだ「契りなき かたみに袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは」で、場所は不特定だが東北地方を詠んだ歌であるとされています。
  『勅撰和歌集』は、醍醐天皇(第60代天皇・在位797〜930)の命により延喜五年(905)に編纂された『古今和歌集』から後花園天皇の命により永享11年(1439)成立した『新続古今和歌集』まで、534年間で21の和歌集があります。
  後白河法皇の命により藤原俊成が文治4年(1188)に編纂した『千載和歌集』に、「さざ波や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」という一首があります。「詠み人知らず」とあって作者は不明となっていますが、平清盛の弟の平忠度(たいらのただのり)であるといわれています。
  平家一門が都を去っていく途中、忠度は京に引き返し、和歌の師だった藤原俊成を訪ね、秀作ばかりを選んで書き付けた巻物を差し出しました。世が改まり、藤原俊成に和歌集編纂の勅命が下ったので、俊成は約束どおり忠度が預けていった百首あまりの中から一首選んで『千載和歌集』に加えました。朝敵になった平家一門の名前は出せないので、「詠み人知らず」としたのだといいます。
  なお、『古今和歌集』は紀貫之(872〜945)らが撰者となって纏めた最初の勅撰和歌集で、その仮名序に「近き世にその名聞こえたる」と挙げたのが、後世六歌仙とい呼ばれている6人です。
紀貫之は身分のそれほど高くない6人あげていい歌だと批評しましたが、これらの人たちが最も優秀な歌人だとは言っていません。もしも、身分の高い人から優秀な作品を選んだならば、評に漏れた人からきっと虐められたに違いなから、あえて身分の低い者の名前を挙げたのかもしれません。彼の保身のための苦肉の策だったのかもしれませんね。

※2 和歌
 「和歌」とは七音と五音をもって構成される文章で、現在では五、七、五、七、七の句を連ねて三一文字で構成する短歌のことをさします。そこから和歌を「みそひともじ」とも呼んでいいます。
  古くは「長歌」に対して「短歌」とよび、平安時代になってからは「漢詩」に対して「倭詩(わし)」から「倭歌」、「和歌」となったと言われています。
  『古事記』や『日本書紀』あるいは『風土記』などのなかにも七音と五音をもって構成される文章もありますが、長歌、短歌などを最初に集大成したのが『万葉集』で、一般的には私撰和歌集に分類されますが、孝謙天皇が橘諸兄などに命じて編纂させた最初の勅撰和歌集だとする説もあります。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2013.07.27
第16回 歌仙と六歌仙/三筆と三蹟

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歌仙と六歌仙
 
六歌仙という言葉を知っている人は多いのですが、だれがメンバーかというとよく覚えていない人がほとんどです。歌仙と六歌仙とは、厳密には違う人を指します。奈良時代から平安時代にかけて「歌仙」と呼ばれた歌人がいました。柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)と山部赤人(やまべのあかひと)ですが、遥か後世になって『古今和歌集』に登場する在原業平(ありわらのなりひら)、僧正遍昭(そうじょうへんじょう)、小野小町(おののこまち)、文屋康秀(ふんやのやすひで)、喜撰法師(きせんほうし)、大伴黒主(おおともおくろぬし)の6人を「歌仙」に対して「六歌仙」と呼んだのです。

 平安貴族は女性を口説いたりちょっかいを出したりする手段として和歌を詠んで贈ったといいますが、当時「歌仙」と称された柿本人麻呂(生没年不詳)や山部赤人(生没年不詳)の他にも源融(みなもとのとおる=822〜895))とか小野篁(おののたかむら=802〜852)など優秀な歌人は数多くいました。
  柿本人麻呂については暦史書にあまり記載が無く、その生涯は謎ですが高い身分にあったことは間違いないようです。『万葉集』には長歌、短歌合わせて100首近くあり、歌人として名を残した人です。草壁皇子(くさかべのみこ=天武天皇と持統天皇の間に生まれた皇子)に仕えて、石見の国(島根県)に役人として下って亡くなったといわれています。また、山部赤人は柿本人麻呂と同様に史書にあまり記載が無く、『万葉集』には50首近い歌が詠まれていますが、あまり高い位の人ではなかったようです。
  「六歌仙」では、在原業平は桓武天皇の孫に当たり、『伊勢物語』の主人公だともいわれていますが、人並みすぐれた歌才を持っており、眉目秀麗な自由気儘で色好みの美男子だったようです。僧正遍昭は、桓武天皇の孫であり、俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)で、良少将(りょうのしょうしょう)と呼ばれましたが、寵愛された仁明天皇が崩御したため出家しました。小野小町と恋仲だったともいわれています。妻にも告げずに家を出て、諸国のお寺を巡って旅をしているときに、妻が自分の無事を願って祈っているところに出会い、会いたいのをこらえ人知れず立ち去ったという逸話があります。
  文屋康秀も位はあまり高くないので、暦史書にはほとんど登場しないから、その生涯はよく知られていません。二条の后(藤原高子)に出入りしていたとか、小野小町と親しかったとかいう話が残っています。地方に下るにあたり、小野小町を口説いたが振られたという話もあります。喜撰法師は宇治山に庵をむすんだ人という以外、全く記録に登場しない伝説的な人です。大伴黒主もまた伝説的な人で、本当は大友黒主というのが正しいようです。そこから大友皇子(天智天皇の子)の血筋ではないかといわれていますが定かではありません。
  小野小町は絶世の美女として有名で、そのために言い寄ってくる男は数知れず、だったようですが、誰にもなびかなかったことから、穴(膣)の無い女と噂されたという伝説があります。そこから穴のない針のことを「小町針」と呼んだので、現在の「まち針」になったといわれています。生誕地を名乗る町村が幾つかあって特定できていません。秋田県がいち早く湯沢市小野が出身地だとして、米に「あきたこまち」の名前をつけ、おかげで新幹線の愛称が「こまち」と付けられたりして一歩リードしています。何でもそうですが、先に声を大にして叫んだ方が勝ちですね。

三筆と三蹟
  この言葉も覚えている人が少ないようです。言われてみれば「ああ、あの人がそうだったか」というような言葉です。平安初期、弘法大師空海、嵯峨天皇、橘逸勢(たちばなのはやなり)が能書家として知られていましたが、その三人を「三筆(さんひつ)」と呼びました。また、平安中期には小野道風(おののみちかぜ)、藤原行成(ふじわらのいくなり)、藤原佐理(ふじわらのすけまさ)が名筆家として知られていましたが、その三人を三蹟(三跡、さんせき)と呼んだのです。

 三筆の一人である弘法大師空海(774〜835)は、俗名は佐伯真魚(さえきまお)で、20歳ころから出家し、延暦23年(804)遣唐使の留学僧として唐に渡り、帰国して真言宗を開きました。「弘法は筆を選ばず」とか「弘法も筆の誤り」という諺もあるほど字の上手な人でした。承和2年(835)、生きながら埋められて即身仏となりました。延喜2年(835)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号(しごう)を贈りました。ちなみに大師といえば空海を指しますが、これまで大師は27名もいます。「黄門さま」といえば水戸光圀ですが、官職の中納言を別名で黄門と呼んだから水戸光圀だけが黄門さまではないのと同じです。また『西遊記』でおなじみの「三蔵法師」も名前でありません。仏教の経蔵・律蔵・論蔵という三つの教えに精通した人を指す言葉であって、「玄奘」が名前です。
  空海は仏教を広めただけでなく、讃岐うどんや灸を伝えたといわれていますが、そのほかにも非常に多くの伝説を残しており、各地に弘法大師によって発見されたという泉や温泉が数え切れないほどあります。また、「護摩の灰」という言葉がありますが、弘法大師が焚いた護摩の灰と偽って売りつける旅の詐欺師がおり、このことから旅人の懐を狙う盗人を指す言葉になったのです。変わったところでは、弘法大師は日本における男色の開祖でもあるとされています。
  嵯峨天皇(第52代天皇、在位809〜823)は、宮廷文化の盛んな時期を過ごして名筆の一人にあげられていますが、浪費が激しく財政を逼迫させるなど、あまり評判がよくありません。56年の生涯を通じて50人もの子供をつくったといわれていることの方が有名です。
  橘逸勢(782〜842)は遣唐使として唐に渡りました。書に秀でていましたが、842年の皇太子を東国に移す画策(承和の変)に関連して逮捕され、伊豆に流罪される途中亡くなりました。後に名誉は回復されましたが、逸勢の逸話はあまり後世に伝わっていません。
  三蹟(三跡)の一人、小野道風(894〜966)は小野妹子の子孫です。あるとき、カエルが垂れ下がった柳の枝に飛びつこうとして何度も挑戦して失敗していたが、ようやく枝に飛び移ることが出来た光景を目にして、一念発起し書道に専念したという逸話が残っています。この話は戦前の教科書にも載った有名な話ですが、現在でも花札の絵柄になっていますから目にしている人も多いでしょう。
  藤原行成(942〜1028)は、世の中に面白いことなど全くないような顔をしていて、大変つき合い難いと評判もよくありませんでしたが、一条天皇や中宮彰子あるいは藤原道長や清少納言など、行成をよく知る人の評判はいいから、人見知りする性格だったのかもしれません。
  最後には正二位権大納言に出世しました。当時は藤原道長の全盛期で藤原公任(ふじわらのきんとう)、藤原斉信(ふじわらのただのぶ)、源俊賢(みなもとのとしたか)と並んで、「四納言」と呼ばれた平安貴族を代表する人でもありました。
  藤原佐理(944〜998)は、藤原鎌足から12代の子孫で、祖父が太政大臣藤原実頼という名門の生まれでしたが、最後は正三位どまりで名門の出としてはそれほど出世してはいません。ふだんから酒の上での失敗が多く、仕事ぶりも芳しくなく、「職務怠慢」な人と評されていたようです。伊予国(愛媛)権守(ごんのかみ=長官)の時にも、上がってきた文書の決裁もせずほったらかしていたとか、正月の儀式をサボって始末書を書かされたなど、数多くの逸話が残っています。
  評判の悪い都を抜け出す手段として、九州の太宰大弐(だざいだいに=太宰府の次官)を願い出て許されています。太宰大弐は、次官ですが長官は常駐しなかったので、実質の長官で、非常に権力がありました。この時も、都を出るときに関白藤原道隆に挨拶してくるのを忘れて、甥の藤原誠信(ふじわらのさねのぶ)に取りなしを頼んでいます。これが『離洛帖(りらくちょう)』と呼ばれ、現在国宝に指定されている文書です。
  また、太宰府の下級役人と宇佐八幡宮の下級役人とが争う事件があって、この責任を問われて都に召還されました。これも佐理が美味い魚を食べ酒ばかり飲んでいて、職務を怠ったからでしょうが、それでも都に帰った佐理は正三位に叙せられたから、結構世渡りが上手な男だったに違いありません。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2013.07.01
第15回 南朝と北朝/北面の武士と滝口の武士

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南朝と北朝
 受験などでよく勉強したものだから知ってはいたが、年齢を重ねるごとに忘れてしまうことが多い中の典型的なことが南北朝でしょう。もう一度簡単におさらいして思い出してみたいものです。
  「南朝」とは、大覚寺統の第96代天皇である後醍醐(ごだいご)天皇(在位1318〜1339)から、第99代の後亀山天皇(在位1383〜1392)の時代をさします。
  「北朝」とは、持明院統の光厳(こうごん)天皇(北朝第1代天皇、在位1331〜1336)、光明(こうみょう)天皇、崇光(すこう)天皇、後光厳天皇、後円融天皇(北朝第5代天皇、在位1368〜1392)の時代を言いますが、明治44年(1911)に南朝を正当としたため、現在の皇統譜(天皇の系図)では歴代天皇には数えません。しかし、南北朝時代以前も以後も北朝の系統が続いています。

 寛元二年(1264)、第88代の後嵯峨天皇(在位1242〜1264)は、わずか在位4年で皇位を4歳の久仁親王(後深草天皇)に譲って院政を開始しましたが、天皇家は皇位継承権を巡って、後嵯峨天皇の子供である後深草天皇(第89代天皇)の持明院統と、同じく後嵯峨天皇の子供である亀山天皇(第90代天皇)の大覚寺統との間に分裂しました。この持明院統と大覚寺統というのは政務を執った場所にちなんで名づけられています。
  この争いは、鎌倉幕府によって持明院統と大覚寺統が交互に皇位につくこと(両統迭立:りょうとうていりつ)になりましたが、後醍醐天皇(大覚寺統)は正慶2年(1333)鎌倉幕府への倒幕の綸旨(天皇の命令)を発して、天皇の独裁政治を行いました。このとき倒幕に貢献したのが足利高氏(あしかがのたかうじ)と新田義貞(にったのよしさだ)です。足利高氏はこの功によって尊氏の名前を貰い改名しましたが、その後、天皇政治から離反しました。
  延元三年/暦応元年(1338)、足利尊氏は、天皇家に伝わる皇位継承の印である「三種の神器」を持明院統の光明天皇に渡し、征夷大将軍に任命されて室町幕府を開きました。この時、足利尊氏が持ち出した三種の神器は偽物だったため、後に問題を残しました。本物の三種の神器を持っていたとはいえ、兵力的にも財政的にも南朝(後醍醐天皇)の力は弱っていき、北朝の光明天皇の後には、北朝の崇光天皇、後光厳天皇、後円融天皇と続きました。これらのことは、南北朝争いとはいっても、実質的には南朝対足利幕府の戦いといっていいでしょう。 
  明徳3年/元中9年(1392)、三代将軍足利義満は、南朝の後亀山天皇に和睦を申し入れ、後小松天皇に三種の神器を渡したら、次は南朝側から天皇を出すという約束がなされました。こうして南北の統一が行われ、後小松天皇は第100代天皇となって、およそ60年にわたる南北間の争いに終止符を打ちました。しかし、後小松天皇の次には南朝側から天皇を出すという約束は守られず、結局北朝側の天皇が続くことになったのです。したがって現在の天皇は北朝の天皇なのです。

北面の武士と滝口の武士
  中世の歴史本を読むと「北面の武士」とか「滝口の武士」などという言葉が出てきますが、詳しいことは知らない人が多いようです。「北面(ほくめん)の武士」とは、白河上皇(第72代天皇、1053〜1129)が設置した、上皇(法皇)に仕え、身辺警護にあたった武士のことです。院の御所の北側に詰め所があったため、北面の武士と称されました。
  「滝口の武士」とは、宇多(うだ)天皇(第59代天皇、在位887〜897)が弓を射る優れた者を選んで、内裏の警護にあてたのが始まりです。御所の清涼殿の北側にある御溝水の落ちる滝口の近くに詰め所があったから滝口の武士と呼ばれました。

  白河上皇は34歳のとき天皇になって、在位15年で8歳の堀河天皇に譲位して、上皇が政治を行いました。これを院政といいますが、これが院政の始まりです。そこで、院を守る強力な武士が必要となり、北面の武士は近畿地方の武士の中から選ばれました。それまで儀礼的存在だった随身(ずいじん=護衛兵)に代わって、強力な武力を持った近衛軍団(天皇家を護衛する軍団)を形成しました。それが12世紀頃には正規軍より強大な軍団になりました。
  鎌倉時代になり、後鳥羽上皇は北面の武士に加えて、院の西側に詰め所をおく「西面(さいめん)の武士」を創設しましたが、承久(じょうきゅう)3年(1221)鎌倉幕府に対して倒幕の兵を挙げた「承久の乱」で後鳥羽上皇側の敗北により、西面の武士は廃止されました。北面の武士はそのまま残りましたが、規模は縮小し、軍事的な面は無くなって、単なる御所の警備兵になり衰退していきました。しかし、その名称だけは明治維新まで続きました。
  有名な平清盛の父である平忠盛(たいらのただもり)は、この北面の武士でした。忠盛は出世して莫大な富を築き、昇殿を許されるようになりましたが、これが平家台頭のきっかけとなったのです。また、歌人として有名な西行法師も北面の武士でした。俗名を佐藤義清(さとうののりきよ)といい、兵衛尉(ひょうえのじょう)という次官に任じられていましたが、23歳の時に出家しました。蹴鞠の名手でもあったとされていますが、一説には鳥羽天皇の中宮である待賢門院(たいけんもんいん)藤原璋子(ふじわらのしょうし)に想いを寄せたがために、その想いを打ち消すために出家したともいわれています。余談ですが、西行は俵藤太(たわらのとうた)藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の系統で、れっきとした武門の家柄でした。秀郷から4代目の藤原公行(ふじわらのきみゆき)は、官職が佐渡守だったので、「佐渡の藤原」という意味で「佐藤」と名乗りました。西行はその公行の子孫です。
  他方、滝口の武士は、時代によって若干違ってきますが、蔵人所(くろうどどころ=天皇家の家事をおこなう部署)に所属する10人から20人くらいで構成されていました。貴族の家人の中から弓射の試験に合格した優秀な源氏や平氏の強者が多く、天皇の警護や、病気平癒祈願や入浴中あるいは皇子出産の際に、弓の弦を強く引き鳴らして邪気を払う「鳴弦(めいげん)の儀式」を行いました。この滝口の武士は、宿直の際には鳴弦の後、天皇に直接名乗りを上げる習慣があって、宮殿に巣くう狐狸鳥獣や風雨による物音が、妖怪変化だと信じている迷信からの恐れや不安を、大きな声で力強くあげる名乗りや、鳴弦の音で解消してくれる大きな役割を果たしていました。
  平将門も滝口の武士でしたが、滝口の武士で有名な者に斎藤時頼(さいとうのときより)がいます。時頼は、平重盛(たいらのしげもり=平清盛の長男)に仕えていた武士で、重盛の推挙で滝口の武士となりました。清盛が催した花見の宴で、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた横笛の舞を見て一目惚れしました。無骨な時頼がようやくの思いで恋文をしたため、なんとか相手に通じたのでしたが、父親から反対されて、わずか19歳で出家しました。一方、横笛は自分の気持ちを滝口入道に知らせるべく、探し歩いてようやく時頼のいる寺にたどり着くのでしたが、時頼は修行の妨げとなると言って会わない。そして、これ以上訪ねて来られてはいけないといって、「女人禁制」の高野山静浄院へ移ったため、横笛は悲しみのあまり大堰川に身を投げたという悲しい話が『平家物語』にあります。明治の文豪高山樗牛が書いた『滝口入道』で有名にもなりました。
  また、西行法師についても、いくつかの勅撰和歌集や私撰和歌集に載る歌を読んだ立派な人だという評価もありますが、出家する際にすがりつく妻や4歳になる我が子を縁側から蹴落として出ていったという話もあります。「坊主は衆生を助けるのが仕事ではないか、自分でちょっかい出しておきながら、女性一人を助けることもできないのか、あまりにも身勝手だ」と怒る人もいますが、とかく男女の問題は古今東西複雑怪奇で身勝手なものです。西行法師も滝口入道も男女間の問題で出家しました。現在ではそういう理由でお坊さんになる若者がいるでしょうか。もしそうなら、恋愛自由な現在だから、日本中お坊さんだらけになってしまう。笑いごとではありません。私のような年金生活でその日暮らしの老人は早く死んでもらわないと坊さんの生活が成り立たなくなります。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2013.05.20
第14回 女性天皇と女系天皇

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女性天皇と女系天皇
  現在、天皇の皇位継承についてさまざまな議論がなされています。そこで「女系天皇」とか「女性天皇」とかいう言葉が飛び交っていますが、両者を同じような意味で使っている人もいます。しかし、この言葉の違いは非常に大きいものがあります。
  「女系天皇」とは、天皇の母親が天皇だった場合を言います。今日まで女性天皇の子供が天皇位についた例はありません。神武天皇(※1)以来平成の今上天皇まで125代の天皇が即位しましたが、この間に8人の「女性天皇」が即位しました。この8人の女性天皇はすべて「男系の女性天皇」です。簡単に言いますと、女性天皇が男性天皇や皇位継承権をもった皇族男性との間に生まれた子供は天皇になれるのですが、それ以外の男性との間に生まれた子供には皇位継承権がないのです。。また、明治時代になって、皇室の制度(皇室典範)が改められて、女性が天皇位に就けることができないことになっています。
  ちなみに、イギリス王室では女性国王の子供でも皇位につけます。したがってイギリス王室における王位継承権を持つ人はおよそ千人にのぼるといいますが、現在日本の皇室では近い将来ゼロになると予想されています。その理由は現在の皇室典範では女系の天皇が認められていないこと、天皇に側室がもてないことなどに加えて、皇族の数が太平洋戦争後の連合軍総司令部の命令で減らされたことによるもので、天皇家の歴史が始まって以来の大きな問題が生じています。
 
  最初の女性天皇は第33代の推古(すいこ)天皇(在位592〜628)です。第29代欽明(きんめい)天皇の娘で、第30代敏達(びたつ)天皇と結婚しますが、敏達天皇の没後、592年蘇我馬子(そがのうまこ)によって崇峻(すしゅん)天皇が暗殺され、蘇我一族の出であることから、蘇我氏によって第33代の天皇に擁立されました。聖徳太子を摂政として「冠位十二階」の制定、「一七条憲法」の制定、小野妹子など遣隋使の派遣、役所制度の整備など、多くの改革を行ったとされています。
  以後、今日まで8人の女性天皇が即位しています。そのうち二人の天皇が重祚(ちょうそ:二度即位した)していますから10代の天皇が女性だったわけです。
  推古天皇の後は第35代皇極(こうぎょく)天皇(在位641〜645)、第37代斉明(さいめい)天皇(皇極天皇が再度即位、在位655〜661)、第41代持統(じとう)天皇(在位686〜697)、第43代元明(げんめい)天皇(在位707〜715)、第44代元正(げんしょう)天皇(在位715〜724)、第46代孝謙(こうけん)天皇(在位749〜758)、第48代称徳(しょうとく)天皇(孝謙天皇が再度即位、在位764〜770)、第109代明正(めいしょう)天皇(在位1629〜1643、徳川2代将軍秀忠の孫)と続き、第117代後桜町(ごさくらまち)天皇(在位1762〜1770)が最後の女性天皇です。
  推古天皇が即位した592年から、794年に桓武天皇が平安京に遷都するまでの飛鳥・奈良時代200年間のおよそ半分のわずか95年間に、8代、6人の女性天皇が皇位についています。なかでも皇極天皇は中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺して「大化改新」を行ったときの天皇でしたし、後に再び皇位について斉明天皇となって百済救済の派兵をしました。また、元正天皇は「養老律令」の編纂や『日本書紀』の完成をしましたし、孝謙天皇は東大寺の開眼供養をしました。称徳天皇として再度皇位につきましたが、未婚であったため皇位継承問題で、有名な道鏡事件(※2)が起きました。この時代、日本は急速に中央集権国家を目指し、律令国家社会の確立を進めていた時代であり、日本国の基礎を固める大切な時期でもありました。このような国家の重要な時期に当たって、女性天皇の方が都合が良かった理由が何かあったに違いありません。この頃からイザとなったら男性より女性の方が頼りになったからでしょうか。

※1 神武天皇
  神武天皇は大和を平定して初代天皇となった人だと言われています。「天孫降臨」に登場するアマテラスオオミカミの孫であるニニギノミコト(邇邇芸命/瓊瓊杵尊)の三男で山幸彦(ホウリノミコト=火遠理命)の子供のウガヤフキアエズノミコト(鵜葺草葺不合命)の子供が、カムヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命)で、この人が神武天皇だとされています。つまりアマテラスオオミカミ(天照大御神/天照大神)の子孫です。
  神倭伊波礼毘古命が5人兄弟の末子でありながら天皇になったのは、大和平定の途中で兄たちが次々と戦死したからで、中には海神の怒りを静めるため荒海に飛び込み、生け贄になった兄たちもいたといいますが、この大和平定は、「神武天皇の東征」という有名な話です。熊野の山中で一羽の八咫烏(やたのからす)が飛んできて道案内をしたり、激しい戦いの最中に金色の鵄(とび)が弓の先に止まって輝いたので、敵は目がくらんでしまい逃げ去ったりした話があります。明治時代に制定された功績のあった軍人に与えられる金鵄勲章(きんしくんしょう)はこの故事に由来しています。ちなみに、八咫烏は日本サッカーのシンボルとなっています。
  神倭伊波礼毘古命が大和国橿原の宮で即位したとされているのは紀元前660年1月1日とされており、明治になって太陽暦を採用したときに紀元前660年を皇紀元年とし、1月1日は太陽暦で2月21日なので、この日を「紀元節」といって大切な国家の祝日にしました。在位は76年、127歳で没し、奈良県優原市の畝傍山に葬られたといいます。しかし、この時代は縄文時代の後期にあたり、食糧や生活環境の厳しい時代に、127歳まで生きられるはずがないから信憑性がないという人もいます。

※2 道鏡事件
  天皇家は「万世一系」であるといいますが、その皇位継承を巡っての争いは何度もありました。672年、大海人皇子(おおあまのみこ=天智天皇の弟、後の天武天皇)と大友皇子(おおとものみこ=天智天皇の皇子)が争った壬申の乱や南北朝時代の争いなどは有名ですが、いずれにしても天皇家一族の皇位継承権争いであり、どちらも天皇の血筋の者が争ったのですが、血統そのものが途絶える危機がありました。それが道鏡神託事件です。
  弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、孝謙上皇(女帝)の病気を呪法によって治したことで上皇の信任を得ましたが、孝謙上皇が再び皇位につき称徳天皇となってからは、道鏡の権勢は絶大なものとなりました。称徳天皇は道鏡に仏法の立場から政治に関与させ、終いには道鏡を皇位につけようと思い始めましたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)が神のご神託が得られなかったと言って反対したため、計画は頓挫してしまい、怒った称徳天皇は清麻呂を九州に流してしまいました。後に称徳天皇が亡くなると、都に呼び戻され出世していくのですが、和気清麻呂が九州に向かう途中、道鏡は清麻呂を殺害しようとします。ところが数百頭の猪の群が刺客を倒して清麻呂を護ったという伝説があります。そこで、和気一族の氏神を祀っている和気神社の狛犬は猪の姿をしています。余談ですが、狛犬は古代エジプトから伝わったもので、ライオンでしたが中国から朝鮮半島の高句麗を経由して日本にもたらされた際に、高句麗の犬だと思われて高句麗の犬からコマ(高麗)犬になったとの説があります。
  道鏡は770年称徳天皇が亡くなると捕らえられて、下野の国(栃木県)に流され亡くなりましたが、称徳天皇がこれほどまでに道鏡を信頼した裏には、夫が持てなかった女帝と道鏡の間には男女の関係があったからだというのが通説です。もちろん噂話ですから信憑性はありませんが、後世になって、道鏡は女帝をも狂わすほどの巨根の持ち主だったという話が出来上がったりして、「好き者(好色者)」の間で有名になりました。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2013.04.01
第13回 赤旗と白旗/頭領と棟梁

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赤旗と白旗
  一般的に白といえば黒、赤なら青が対称色ですが、運動会などでは赤、白のハチマキや帽子を被っります。また、式典や祭などの慶事には紅白の幕が使われます。逆に葬式など弔事の場合は黒白の幕を張りますが、これは、古代陰陽道では赤は太陽を表し、黒は闇すなわち夜を表します。したがって、慶事には赤、弔事には黒を基調とした色が使われてきました。だから運動会のような一種の式典には紅白の幕を使い、紅組白組に分かれて競うのだという説がありますが、一説では、慶事の紅白、弔事の黒白の由来とは違って、「源氏の白旗」、「平氏の赤旗」から来ているという説もあります。
 
  「赤旗」は平家が用いていた旗印です。他方「白旗」は源氏が用いていた旗印です。なぜ源氏が白旗で平氏は赤旗なのかは諸説があります。一説によれば清和源氏(清和天皇系の源氏)の祖先は朝鮮半島の新羅系、桓武平氏(桓武天皇系の平氏)は百済系だからで、新羅は白旗を、百済は赤旗を用いていたからだと言います。ちなみに、蒙古のチンギス・ハーンの旗は白だったことから、源氏の義経がチンギス・ハーンになったという説の根拠の一つでもあると力説する人もいます。
  源氏の守り神の八幡神は第15代天皇の応神(おうじん)天皇です。品陀和気命(誉田別尊、ほんだわけのみこと)として祀られていますが、応神天皇は母である神功(じんぐう)皇后が新羅、百済、高句麗を征伐(※1三韓征伐)した帰途生まれたと言われていますが、実は応神天皇以前の歴史に不明なところが多く、そこから天皇の祖先は朝鮮半島からの帰化人だという説、あるいは清和天皇や桓武天皇の母親が朝鮮半島からの帰化人だという説など、様々の説があります。
  清和源氏の祖先が新羅系、桓武平氏は百済系だというのは、そういった説によるものです。もちろん、確たる証拠はありませんから反論も多く、こういった説は、神国日本の純潔性から太平洋戦争以前は絶対に口にできなかったのですが、終戦後は「言論の自由」という「錦の御旗」を振りかざして、続々と大陸や朝鮮半島との混血あるいは帰化人説がでてきました。センセーショナルな説を発表して、歴史学者の単なる売名行為ではないかと皮肉る人がいるのも事実です。
  余談ですが、最近ではハチマキをする学校も少ないようですし、帽子の色も赤と白だけではなくカラフルになってきたところも多く、中には色分けもしないという学校もあります。みんな仲良く平等に、という学校教育の精神からだと言います。徒競技でも、一着二着と順位は付けないところもあって、ゴールの前で早い子は遅い子を待ってから一斉にテープを切るところもあるようです。
  子供の心を傷付けないようにという方針らしいのですが、モンスターママなどの攻撃で、先生がたがご配慮されたのだとも言われています。大人になってもガラスの身体と心で世の中を渡っていくのは、さぞかし大変だろうと思うのですが、そのころには当事者たちはこの世にいないから責任の取りようがありません。どうすればいいのでしょう。

(※1)神功皇后の三韓征伐 
  『日本書紀』によれば、神功皇后(170〜269)は、仲哀(ちゅうあい)天皇(第14代)の皇后で、天皇が熊襲(くまそ)の反乱を平定して帰る途中急死したため、神功皇后は熊襲の背後にいると思われた新羅を攻め、百済、高句麗を日本の支配下に入れたという記述があり、これを「三韓征伐」と言って、戦前までの歴史教育の中で教科書にも記載されていました。
  しかし、三世紀の日本は弥生時代であり、神功皇后の実在が実証できないこと、また『魏志倭人伝』によれば倭国大乱の時代であり、朝鮮半島への出兵する余裕はないと考えられるところから、戦後の歴史研究では史実ではないとする学者が多いのです。

頭領と棟梁
  盗賊などの親分は「頭領(とうりょう)」ですが、歴史書などでは武家の一門の長を「棟梁(とうりょう)」と書きます。武家の親分も頭「かしら」であることには間違いないから、「頭領」でいいのではないかと、多くの人は言います。武士も盗賊も弱い庶民から略奪行為を働くので似たようなものだから、どちらでもいいようなものだと思うのですが、あえて言うならば盗賊は仲間の頭だから頭領、武家の方は一家(棟)の長だから棟梁なのでしょう。大工の親方は家(棟)の建築をしきるから棟梁です。

   大泥棒といえば石川五右衛門と鼠小僧次郎吉が有名です。石川五右衛門は、文禄3年(1594)に釜ゆでの刑に処せられました。また、鼠小僧次郎吉は、天保3年(1832)に磔獄門(はりつけごくもん)」になりました。どちらも大名家ばかり狙って貧乏人に恵んだ義賊だと称されていますが、実際は女と博打に明け暮れしていたようです。しかし、この二人は単独犯です。
  大泥棒の頭で有名なのは日本左衛門でしょう。浜島庄兵衛という元尾張藩の下級武士で、江戸時代に跋扈した盗賊です。数十人の手下とともに「犯す、殺す、貧しいものから盗む」というとんでもない盗賊でしたが、最後は火付け盗賊改方に捕まって処刑されました。この日本左衛門をモデルにしたのが、河竹黙阿弥の『青砥稿花彩紅画(あおとぞうしはなのにしきえ)』通称『白浪五人男』です。
  他方、武士の棟梁といえば、八幡太郎源義家(はちまんたろうみなもとのよしいえ:1039?1106)でしょう。清和天皇の子孫の経基王は源姓を名乗りますが、この源経基の曾孫に当たる源頼義の嫡男で幼名不動丸は、7歳の時に京都石清水八幡宮で元服をして、自ら八幡太郎義家と名乗り、後に「前九年の役」や「後三年の役」で活躍し、「源家の棟梁」とか「武家の棟梁」と称えられました。
  義家は「後三年の役」で清原一族の反乱を鎮圧しましたが、朝廷は清原一族が朝廷に反抗したものではないとして、この戦いを内戦・源義家の私戦であるとし、戦功行賞は行いませんでした。そこで仕方なく、義家は自らの財を味方した家人・郎党に分け与えたので、武士たちの間で義家の評判が高まり、武家の棟梁としての地位を確固たるものにしましたが、逆に朝廷の権力は弱っていきました。上司は部下の手柄を評価し、ご褒美をケチってはいけない、という教訓です。
  平氏最後の棟梁は平清盛でしたが、鎌倉時代以降は橘氏や平氏が没落しましたから、北条家などは平氏の出ですが棟梁というわけでありませんでした。徳川時代には先祖が源氏か藤原氏がブランドとなって、武士や大商人たちはこぞって系図を偽造したり、売買したりしました。徳川家康も最初は「藤原」を名乗っていたようですが、後には「源」を名乗るようになったという説もあります。したがって、最後の武士の棟梁は徳川家となっています。
  現在でも家系を自慢する人が結構いますが、実際は本当かどうかわかりません。以前に「姓と氏」でも触れましたが、たとえ本当であったとしても、今では血も薄まって先祖の欠片も残っていません。それよりも、偉い先祖を自慢する者は、逆に自分が不肖の子孫だといっているのと同じだ、ということに気が付いていません。まったく大笑いしたくなる話ですが、日本人は遡れば必ず天皇家の誰かに繋がるという学者もいますから、一概に笑い飛ばすこともないのかもしれません。
  家柄を自慢する人に出会ったら、「よう!大将!」ではなく、「よう!陛下!」と呼んであげましょう。キャバレーなどでは、ホステスが貧乏人にも「社長さん!」と呼んでくれるではありませんか。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2013.02.19
第12回 平氏と平家/『源氏物語』と『平家物語』

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平氏と平家
  「源氏」とか「平家」という言葉は誰でも知っています。しかし、「源家」という言葉を聞いた方はいないでしょう。たとえば、源氏とは源(みなもと)の姓をもった氏族の総称ですから、(第10回氏と姓を参照)「平」の姓をもった氏族は「平氏」というのが普通です。なぜ「平家」なのでしょうか。
  そもそも、源氏とか平家という言葉は、頼朝が旗揚げしてから平家が滅びるまでの戦いを描いている『平家物語』や『源平盛衰記』などに登場してから、一般に広く知られるようになったのですが、源義経や頼朝が戦ったのはあくまでも平清盛一家が主力であって、平姓の氏族とではありません。ですから平氏ではなく平家なのです。源氏の方は源頼朝一家だけではなく源(木曾)義仲や源行家などの源姓の氏族が参戦しましたし、頼朝の妻北条政子に家は平氏であるのと同様に平氏も頼朝軍に参加していますで、そこが平家軍と違うわけです。

 弘仁5年(814年)に嵯峨(さが)天皇(第52代・在位809〜823)が8人の子に源(みなもと)の姓を与えたのが源氏の始まりで、以降にも、醍醐(だいご)、清和(せいわ)、村上(むらかみ)など多くの天皇の子供が源姓を与えられて臣籍に下っています。源姓は天皇と源を同じくするという意味だという説もあります。
  「平氏」は、桓武(かんむ)天皇(第50代天皇)、仁明(にんみょう)天皇(第54代天皇)、文徳(もんとく)天皇(第55代天皇)、光孝天皇(第58代天皇)の4人の天皇の子孫が、平姓を与えられて臣籍に下りました。平氏で有名な者は、桓武天皇を祖とする「桓武平氏」の子孫でしょう。なかでも有名な人は平将門(たいらのまさかど:903〜940)と平清盛(1118〜1181)でしょう。
  承平(じょうへい)5年(935)、関東に土着した桓武平氏一族の間に領土争いが起きました。このとき、平将門は、都に行っていた間に領土を奪った伯父の平国香(たいらのくにか)を殺害しましたが、これを契機に地方豪族による朝廷への反発は全面的な国家への反乱へと繋がります。これが歴史教科書に出てくる「将門の乱」です。平将門は結果的に反乱を企てた朝敵とされてしまいましたが、そもそもの発端は一族の内紛であり、そこに租税を徴収する源経基(みなもとのつねもと)のような官吏の横暴などに不満を持つ地方豪族に頼られた将門の不幸があったことは事実で、後に徳川三代将軍家光の時代に朝敵の汚名が晴れました。余談ですが、この将門を祀ったのが東京のお祭りで有名な神田明神です。
  また、平清盛は平忠盛(たいらのただもり)の嫡男として生まれたとされていますが、一説には白河上皇の子を身籠もった祇園女御が忠盛に下賜されて、生まれた上皇の子供が清盛だとも言われています。保元(ほうげん)元年(1156)の「保元の乱」で華々しい活躍をし、平治(へいじ)元年(1159)の「平治の乱」では源義朝(みなもおのよしとも)を討って、武人として初めて従一位太政大臣を授かりました。NHKの大河ドラマで活躍しましたから御存じでしょう。
  平氏に関する話は、平清盛一門の他にはあまり出てきません。その理由は、そもそも源氏は臣下に下ってからすぐに姓を賜ったので、多くの人たちが代々源姓を名乗っていたのに対し、平氏は臣下に下って与えられた土地に住んで、多くはその土地などの姓を名乗っていました。それが孫の代あたりになって、平氏の姓を賜るものだから、後々まで平氏を名乗った人が少なかったことにもよります。

 最近、各地に「平家の子孫」と名乗るものが出てきて、今では「平家落人の里」などと名乗って観光名所として売り出していますが、これは平家ではなく平家の郎党(家臣)の末裔です。なぜなら、源平の合戦で平家一門は壇ノ浦で全滅して平家蟹になってしまいました。「平家」とは平清盛一族を指しますから、家来どもが勝手に主君の子孫だと言っているようなものですが、一門の武将の姫を連れてこの地に逃れてきたという伝説を盾に主張するところもあるようですが。
  平家が栄華を誇っていたころ、「平家一門にあらざらん者は人にあらず‥‥」と豪語したのは、清盛の妻時子の弟の平時忠(たいらのときただ:1128〜1189)です。清盛と同じ桓武天皇の子孫ですが、武家ではなく公家でしたから、壇ノ浦の合戦で源義経に捕虜にされても一命は助かり、能登に流されて、その子孫は時国家として代々格式の高い家柄を誇ったと言います。
  平家一門の武将は残らず討ち死か自害したのですが、じつは生き残った者がいました。それが平頼盛(たいらのよりもり)で清盛の腹違いの弟です。母親が池禅尼(いけのぜんに)と呼ばれていましたから、通称池大納言(いけのだいなごん)と呼ばれました。この頼盛は、もともと清盛とは不仲だったので、平家が都落ちをしたときも同行しませんでした。本来なら一族は捕まえられれば処刑されるところですが、母親が池禅尼だったことで助かったのです。「平治の乱」で敗れた源義朝の子の頼朝は、池禅尼が清盛に嘆願して処刑を免れたので、頼朝にはその恩義があって頼盛を助命したのだと言われています。池禅尼は、幼くして亡くなったわが子に頼朝が似ていたから助命嘆願しました。その結果平家一門は滅亡したのです。こういった場合は、「情けは人のためならず」といっていいのかどうか、微妙ですね。

『源氏物語』と『平家物語』
  生半可に日本の文学を囓った外国人の中には、『源氏物語』と『平家物語』とが同一の時代の作品で、お互いに関連しあっていると思っている人がいます。当然、これは間違いで時代も背景も違います。しかし、日本人の中にも同じように思っている人がいますから、あまり文句もいえません。
  『源氏物語』とは、平安中期の作品で、主人公の光源氏という貴族が、多くの女性と関係する長編恋愛小説で、紫式部が書いたと言われています。他方、『平家物語』とは、鎌倉時代に成立した、平家一門の栄耀栄華から源平の戦いに破れて没落していくまでの軍記物語です。

 『平家物語』の原本は、いつ頃、誰が書いたかは定かではありませんが、現在私たちに語り継がれている話の多くは、応安(おうあん)5年(1371)明石検校覚一(あかしけんぎょうかくいち)という人が琵琶本として書いた『覚一本』から引用されていると言われています。平安時代から江戸時代にかけて、「琵琶法師」と呼ばれる僧体をした盲目のアーチストが、琵琶や三弦で弾き語りをしていました。その楽譜が琵琶本です。
  ちなみに、紫式部、清少納言、和泉式部など有名な宮廷文学の主な作者は女性でした。紫式部は、一条天皇(第66代天皇、在位986〜1011)の中宮の彰子(しょうし)に仕え、『枕草子』の清少納言は皇后の定子(ていし)に仕えていましたが、当時は藤原一族を主とする貴族が娘を天皇の后にさしだして、権力を保持する時代でしたから、娘の箔をつけるために争って才媛を雇ったと言います。
  この「中宮」とは天皇の妻たちのことを言います。本来は皇后がいなかった時代に呼ばれた名称だったのですが、皇后と中宮は並立していた時代がありました。実家の権威や天皇と退位して上皇となった天皇などとの思惑など、さまざまな要因からこの名称がつけられたと言いますが、一般人だったら簡単に区別差別が出来るのに、高貴な世界は複雑怪奇で面倒なものです。

 ところで、古い時代から卑弥呼にはじまって数多くの女性が歴史に登場しますが、ほとんど実名が出てきません。『源氏物語』を書いた紫式部は、藤原式部丞為時(ふじわらのしきぶのじょうためとき)の娘ですから、作品に登場する「紫の上」にちなんで紫式部と呼ばれました。同じように、清少納言は清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘で、結婚した相手の藤原信義(ふじわらののぶよし)が小納言だったから清少納言であり、また和泉式部も結婚した相手の橘道貞(たちばなのみちさだ)が和泉守(いずみのかみ)で、父親の大江雅致(おおえのまさむね)が式部丞(しきぶのじょう)だから和泉式部なのです。このように、大概は「誰々の娘」とか「誰々の母」とされていて、諱(いみな:実名)は、系図に残るような高貴な家の女性でなければ残されていません。
  また、小野小町など歴史に登場する才能豊かな女性は例外なく美人です。不細工な顔をしていたという話は不思議と出てきません。才女ばかりではなく、木曾義仲の巴御前(ともえごぜん)や鎌倉幕府討伐に動いた越後の城氏の娘である板額(はんがく)御前など武勇に優れた女性たちも、当然のように美人であったとされています。それもこれも、情けないことに、世の男どもは女性とみればみんな美人だったという願望があるからに違いありません。自分になびくようになるわけでもないのにね。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2013.01.26
第11回 摂政と関白/幟と旗印

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摂政と関白
  「摂政(せっしょう)」と「関白(かんぱく)」とは、天皇政治を補佐する人の名称であることはよく知られています。学習したはずですが、混乱している人は少なくないようです。
  「摂政」は、天皇が幼かったり病弱のために政務や国事が行えなかったりする場合、天皇から全権を与えられて政治を行う人で、「関白」は天皇に代わって政治を行う人ですが、この場合、決裁権はあくまでも天皇にあります。
  初の女性天皇である推古(すいこ)天皇(第33代天皇、在位592〜628)は、甥でもある聖徳太子(※1)を摂政として政治を行いました。これが歴史上最初の摂政だと言われています。「冠位十二階の制定」、「一七条憲法の制定」、小野妹子など「遣隋使の派遣」、「官司制(役所の制度)の整備」などの改革を行いました。その後、何人かの皇族が摂政として政治を行いましたが、天安(てんなん)2年(858)に藤原良房(ふじわらのよしふさ)が、皇族以外で初めて摂政の座に着きました。良房は文徳(もんとく)天皇の后に自分の娘を嫁がせて、産まれた子供を9歳で天皇に即位させ実権を握りました。それが清和(せいわ)天皇(第56代天皇)です。
  これ以来、次々と天皇の后に嫁がせた藤原家が、天皇の外戚として摂政になりました。幼い天皇が成人すると、摂政を辞し関白となって摂政時代同様に傀儡政治が行われました。こうして、事実上天皇親政から摂政関白の政治になっていきましたが、この時代は藤原氏の独壇場でしたから、天皇が病弱ではなくとも無理やり病弱にされて、藤原一族が関白となって政治を執り行いました。現代の企業においてもスポンサーの銀行や親会社から役員が入ってきて、社長が経営から遠ざけられる、といったようなものだと思えばいいでしょう。
  藤原氏は中臣鎌足(なかとみのかまたり)が大化改新の功績により、天智(てんじ)天皇から死の直前「藤原」の姓を与えられましたが、その子である不比等(ふひと)は、娘の宮子を、すでに皇后がいる文武(もんむ)天皇(第42代天皇、在位697〜707)の夫人に送り込み、その間に生まれた聖武(しょうむ)天皇(在位724〜749)の皇后に娘の光明子を入れたことで、藤原氏隆盛の基礎を固めました。これが史上初の皇族以外からの皇后です。
  近年では、明治22年(1889)皇室典範が制定されて、摂政は成人に達した皇族が就任することに定められました。大正10年(1921)〜15年(1926)まで昭和天皇が摂政となっています。
  関白は、元慶(がんぎょう)4年(880)に藤原基経(もとつね)が、宇多(うだ)天皇の時に最初に関白となり、以来、摂政と同じく藤原氏一族が占めるようになりますが、例外として豊臣秀吉が関白に就任し、藤原氏、五摂家以外の、しかも武家の関白が誕生しました。
  また、藤原道長(966〜1028)の頃から、外戚に関係なく摂政、関白のいずれかは藤原氏一族が占めるようになり、これが明治まで続きました。
  紀貫之が作者だと噂もある「竹取物語」に、かぐや姫の出す難題を果たそうとする貴族の中で、ずるがしこい嘘つきの車持皇子(くらもちのみこ)が登場しますが、モデルは藤原氏隆盛の祖である藤原不比等だという説がありますから、民衆からは嫌われていたのではないかと言います。いつの時代でも、権力者と縁組みするのが出世の早道なのですが、周囲からは嫌われるのは同じようです。

※1 聖徳太子 
  古人のなかでこれほど有名な人はいないでしょう。生まれ落ちたときから言葉を話し、聖の知恵を持っていた神童だったとか、一度に十人の訴えを聞いて的確な指示を出したとかいう話は有名です。聖徳太子は『日本書紀』にも厩戸皇子(うまやどのおうじ)、豊聡耳聖徳(とよさとみみしょうとく)、上宮太子(かみつみやたいし)などの名前で出てきますが、聖徳太子という名前が出てきません。
  そもそも、この時代には皇太子制度がなかったと言いますし、生まれてきたとき、母が馬屋の戸に当たって苦もなく出産したとありますが、イエス・キリストの生誕にそっくりです。また、蘇我氏と一緒に物部氏と戦った際に、自ら敗戦の兵の先頭に立って戦況を挽回したという逸話は、お釈迦様の皇太子時代の話にそっくりだと言う人もいます。そこで、聖徳太子は実在の人物ではなく、推古天皇と実家の蘇我一族のブレーンを総称して、後世の人が作り出した人物ではないかという説もあります。

幟と旗印
  中世から戦国時代における戦記ものに「幟(のぼり)」とか「旗印(はたじるし)」あるい「旗指物(はたさしもの)」などという言葉が出てきます。混同したり混乱したりしている人も多いようです。これら幟、旗印、旗指物は、鎌倉時代から武士が戦場などで敵味方を識別する標識として発展してきました。
  幟とは旗竿にくくりつけた縦長の細い幕で、絵や文字が書かれているものですが、戦場において総大将が自分の位置を示し、武威をほこるために立てた標識です。たとえば、武田信玄の「風林火山」や上杉謙信の「毘」、あるいは真田幸村の「六文銭」などが有名です。
  幟のほかに、四角い旗の形をしたものを「旗印」といい、総大将だけでなく武将たちが、幟と同じように自分の位置を示したり武威を誇ったりするために掲げました。また、個々の武士たちが自分の位置と功名を周囲の者や総大将に誇示するために、甲冑の背中に指した小旗が「旗指物」です。
  戦場では、この幟旗の脇に、総大将は「馬印(うまじるし)」という飾りを立てました。たとえば織田信長の「唐人傘」、豊臣秀吉の「千成り瓢箪」、徳川家康の「金扇」などがよく知られています。

 現在も5月5日の「端午の節句」には、幟や鎧・兜などを飾って、男の子の無事な成長を願う風習が残っています。そもそもは、季節の変わり目に病気や災害から身を守るため、平安時代から薬草や薬膳などで邪気を避け、悪魔を祓ったという五節句(節供)の一つだったのですが、この日は、菖蒲の湯に浸かったり、粽(ちまき)や柏餅を食べたりしますから、菖蒲が尚武に通じるということで、端午の節句を「尚武の日」として祝うようになったと言います。
  粽は中国から伝わったものですが、柏餅は江戸時代前期にわが国で生まれた菓子で、柏の木は新芽が出ないと古い葉が落ちないことから、子供が産まれるまで親は死なない、つまり家系が途絶えないという縁起担ぎに柏が使われました。
  江戸城では、将軍に男の子が産まれると、威風堂々とした立派な武将に育ってほしいとの願いを込め、表玄関に馬印や幟など戦場で必要な道具を飾るようになりました。それが武家の間にひろまり、5月5日の「端午の節句」と重なり合って、幟や鎧・兜などを玄関先に飾りました。
  町民たちは、馬印や幟の代わりに紙で作った鯉幟を揚げるようになりました。江戸の町民は鯉幟のように威勢が良く、腹に何も含むものがないということで、「江戸っ子は五月(さつき)の鯉の吹き流し」と言って、潔さを自慢しましたが、武家社会では「腹がない」ということで嫌いました。
  最近は何十枚も掲げた鯉幟を谷や川を挟んで渡すことが流行しています。一見壮観ですが、男の子が成長して鯉幟の処置に困ったのが流行の理由ではないかと勘繰るへそ曲がりもいます。現在はむやみに焼却処分することができません。塗料の成分が焼却することにより有害物質を放出するということで、雛人形やダルマも供養して焼却してくれる所が少なくなりました。パチンコ屋や商店の大売り出しの幟の処分はどうしているのでしょうか。やはり燃えるゴミとして焼却場に出しているのでは?と余計なことですが心配になります。有害物質を出さない塗料が使われていればいいのですが。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.11.14
第10回 姓と氏/甲冑と具足

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姓と氏
現代社会では、「姓(せい)」は氏(うじ)とか苗字(名字:みょうじ)とかを言いますが、古代日本では姓と氏、苗字は別なものだったことは、あまり知られていないようです。現在の戸籍法では、天皇家以外は姓と名が個人の名前を表すものとして戸籍に記載されていますが、昔は姓のない人が多く、明治時代に姓と氏の二重制度や苗字の特権制が廃止されて、姓、氏が苗字(名字)として義務づけられましたので、銘々が好き勝手な苗字をつけてしまいました。

 大和政権下にあっての姓とは、社会的、政治的に有力な氏族(豪族)に天皇が与えたもので、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)など数十種類あり、一番格式の高いものは臣、連で、その中でも有力な氏族には大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓が与えられました。当時は姓(せい)と言わず「かばね」と呼んでいました。
  684年、天武天皇は「八色姓(やくさのかばね)」という8種類の姓に整理して、忠誠心の強い氏族には朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)などの姓が与えられ、臣や連の地位は下がってしまいましたが、8世紀、奈良時代にはいると、ほとんどの姓は「朝臣」になってしまい、姓は形式的なものになりました。
  そもそも姓は天皇が臣下に与えたものですから、天皇家には現在の私たちのような姓はありません。また、初代の神武天皇から1989年に崩御された第124代の昭和天皇までの「神武」とか「昭和」の名前は「諡号(しごう)」と言い、崩御されてからの贈り名です。たとえば昭和天皇は「裕仁(ひろひと)天皇」であり、今上天皇(きんじょうてんのう:現在の天皇)は「明仁(あきひと)天皇」です。
  他方、古代の親族集団とそれを中心として結合した政治的集団を「氏(うじ)」、「氏族」と呼びました。物部(もののべ)氏や日下部(くさかべ)氏のように職能に由来するものや、蘇我(そが)氏、吉備(きび)氏、出雲氏などのように地名から名乗るものなどがあり、また、後に公家や武家のブランドとなった「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」と呼ばれた源氏、平氏、藤原氏、橘氏などのように、天皇から賜った氏などがありました。このように、その氏族に属する者という意味で、「藤原の鎌足」のように藤原の後に「の」を入れて呼ばれました。つまり、「藤原氏族に属している鎌足」という意味です。
  平安時代になると、それまでの姓は形骸化されてしまいましたから、姓と氏とは同じものとされるようになりました。たとえば源氏の「源」は姓であり氏の名前になったと言っていいでしょう。また、姓が形骸化したこともあり、氏族(血縁等の集団)の中でも、自らの家系(家族集団)を区別するために、苗字を名乗るようになりました。苗字の多くは出身地名でしたが、貴族の場合は、当時子供は母親の実家で育ちましたから母方の地名を名乗り、武士の場合は支配している土地の名前を名乗りました。たとえば、足利尊氏(あしかがたかうじ)の墓碑には、「従一位贈左大臣征夷大将軍足利源朝臣尊氏」とあって、位階、官職、苗字、氏、姓、諱(いみな:名前)と続いており、そこから尊氏は源氏の一族であり、足利が領地だったことがわかります。
  余談ですが、農民を「百姓」と呼んだのは、姓がないから逆にいっぱいあるという意味からです。だから、姓を誇る人に出会ったら、わが家の祖先は姓が百もあったぞ、と威張ってやるといいでしょう。実際、冒頭に述べましたように、明治になって姓を勝手につけたことだけでなく、戦国時代には自分を高く評価されたいがために、系図を勝手に作ったり、でたらめを名乗ったりした例が少なくないと言いますから、姓から本当の祖先をたどることは無理な話ですし、たとえ確かだとしても、血は薄まって欠片も残っていないでしょう。ある実験で、鰻屋が「100年前の秘伝のタレ」と称するタレは、継ぎ足し継ぎ足し使うものですから、薄まって、2、3年で「100年前のタレ」の部分は無くなっているとの報告もありますから、姓を誇るあるいは出自を誇ることはナンセンスなのです。それに、先祖が偉かったというのは、裏がえせば、今の自分がダメな人間なのだと言っているようなもので、情けない話ではありませんか。

甲冑と具足
  歴史本や時代小説などで、戦いの際に身につける戦闘服を「甲冑(かっちゅう)」とか「具足(ぐそく)」などと呼んでいますが、使い方があいまいです。大雑把にいえば広い意味で戦闘服を具足といい、なかでも鎧(よろい)、兜(かぶと)を甲冑と呼ぶ場合が多いようです。

 弥生時代に始まり、古墳時代の頃までの甲冑は、短甲(たんこう)と呼ばれる木製や鉄製の胸当てに近いもので、当時の刀は直刀であり、主として突きが戦法だったからだと思われますが、中世になると、馬に乗り弓と太刀による戦法が確立されて、大鎧と呼ばれる美しい鎧兜が出現します。この大鎧と呼ばれる甲冑は、他国には例がなく日本特有のもので、これが甲冑の主流となりました。この派手なふん装は、自分の位置を示したり武威を誇ったりするためだったと思われますが、一説によると「死装束」であるからだともいわれています。
  大鎧はあくまでも騎乗による武士の弓矢に対する防具であり、馬に乗らない歩行の兵士たちは、胴丸あるいは腹巻、腹当などと呼ばれる、主として胴を包み込む防具を用いました。戦闘において乗馬が倒れれば重い鎧をつけた武士は不利です。そこで騎馬武士の下に数人から数十人の家来や臨時徴集の農民などが従がって騎馬武士を守るのが大きな使命でした。もっとも、名乗りを上げてから戦闘に入るのが礼儀であり、乗馬や船を操つる水夫(かこ)を弓矢で射ることはしないのが不文律でした。ですから、源平合戦の際の源義経がとった鵯越の奇襲作戦や、壇ノ浦での海戦の際の戦法は、当時からすれば卑怯この上ない作戦だったのです。日本人の好きな「勝てば官軍」、「判官びいき」が卑怯極まりない極悪非道な義経を英雄に祭り上げてしまったのだと言う人もいます。
  近世になると、これまでのような名乗りを上げてから一騎打ちをする戦法が、鉄砲の普及などによって歩行(かち)の槍、鉄砲による戦法へと変わってきました。つまり卑怯な作戦が卑怯で無くなったのですが、これは織田信長が長篠の戦で武田勝頼の騎馬軍団を鉄砲で壊滅させた戦いが、その戦法に拍車をかけたとも言えます。
  こういった一騎打ちの戦法から鉄砲など新兵器による戦法に変化するのに伴って、胴丸が変化、発展した機能的な「当世具足」と呼ばれる甲冑が主力となりました。これは胴(どう)、兜(かぶと)、袖(そで:肩から袖につけた楯)に顔を護る面頬当(めんぽうあて)、手を護る籠手(こて)、大腿部を護る佩楯(はいたて)、臑を護る臑当(はいたて)などの小具足と、これらを納める具足櫃(ぐそくびつ)です。
  鎧や具足は、一領、二領と数えますが、武士たちは予備の鎧を持つのが常識でしたから、通常は二領以上持っていました。戦争が無くなった江戸時代においては単なる飾りものになってしまいましたが、関ヶ原の合戦で負けた西軍の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の領地土佐国(高知県)を、山内一豊(やまのうちかずとよ)が治めることになったとき、「一領具足」と呼ばれる元親の家臣団による強い抵抗にあいました。この「一領具足」とは、ふだんは農作業に従事していますが、農作業の際にも一領の具足を傍らに置いて、動員がかかるとその具足を携えて駆けつけた者たちを呼びました。
  余談ですが、昔の日本では刀剣は「正宗」という刀がよく切れると評判でしたし、兜は「明珍」が有名でしたが、古代中国の楚という国で、「どんな盾でも突き刺す矛」と「どんな矛でも防げる盾」を売っていた男が、「それではその矛でその楯を突いたらどうなる」と言われて返答に窮した故事から「矛盾」という言葉が出来ました。最近でも政府や政党が掲げた「マニフェスト」とやらに矛盾が多いと叫ぶ人も多いようですね。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.10.25
第9回 剣と刀

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剣と刀
「剣」とか「刀(かたな)」あるいは「太刀(たち)」という言葉をよく目にしたり耳にしたりしますが、この違いについて明確に答えられる人は少ないようです。「剣」とは、刀身の根元に茎(なかご)という短い突起があって、ここに柄を差し込んで使います。なお、刀身の根元が袋状になっていて長い柄に差し込んで使うのを矛(鉾)と言います。どちらも両刃で突いたり刺したりする武器です。
  「刀」とは、両刃である剣に対して、片刃のものを言います。なお、ふだん腰に差している時に、刃を上にして帯に差すのを刀、刃を下に向けて差すのを太刀と呼びました。
 
  弥生時代から奈良時代の頃までは、主として「反り」のない直刀でしたから、剣あるいは矛が主要な武器だったと思われます。戦法が「突き」から「打つ、斬る」に変わってきた中世から、反りのある刀がよく斬れるので主流になってきました。反りのある刀は日本独特のものです。
  日本刀は刃の部分に硬い鉄を使い、それを柔らかな鉄で包み、高温の炭火で焼いて、何度も叩き延ばして刀にしますが、それを「鍛錬」と言いました。「身体を鍛える」などの「鍛練」の語源です。また、槌を振るう刀匠の正面で、弟子が大槌で鉄を打つことを相槌(あいづち)ということから、他人の話などに「相槌を打つ」という言葉の語源になりました。
  清和源氏の祖である源経基(みなもとのつねもと)の嫡男満仲(みつなか)の愛刀に「髭切丸(ひげきりまる)」と「膝丸(ひざまる)」がありましたが、この二刀は嫡子の頼光(よりみつ)に引き継がれました。「髭切丸」は頼光四天王(らいこうしてんのう)の一人渡辺綱(わたなべのつな)が愛宕山の茨木童子(鬼)を退治したとき以来「鬼切丸」と呼ばれ、「膝丸」は頼光が北野神社の山蜘蛛を退治してから「蜘蛛丸」と呼ばれるようになりました。この二刀は、共に頼光の甥にあたる源頼義(みなもとのよりよし)から嫡男の義家(よしいえ)へ伝えられて、源氏の棟梁のステータスシンボルとなりました。
  その後、「鬼切丸」は源頼朝(よりとも)へ引き継がれ、鎌倉幕府滅亡後は源氏一門の末裔である新田義貞(にったよしさだ)に伝わったといいます。また、熊野神社に奉納されていた「蜘蛛丸」は、源義経(よしつね)の平家追討の際に、熊野神社から義経に渡ったといわれています。
  平氏では「小烏丸(こがらすまる)」という宝刀があり、桓武天皇が平安京を造営した際に、三本足のカラスが運んできたといわれ、平貞盛(たいらのさだもり:桓武平氏の祖高望王の孫)が「将門の乱」の鎮圧に向かうときに、朱雀天皇から下賜されて以来、平氏の宝刀といわれて現存しています。
  天皇家に伝わる宝剣「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」(※1)は、神話の「天の岩戸事件」(※2)に出てくる八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがた)とともに「三種の神器(じんぎ)」(※3)の一つでしたが、この刀は元歴2年(1185)の「壇ノ浦の合戦」で、二位の尼(清盛の妻・時子)が8歳の安徳天皇を抱きかかえ投身自殺した際に海中に沈んだと伝えられています。
  なお、八咫鏡、八尺瓊勾玉も海に投じられたが、箱に入れられていたため海上を漂い、義経の軍勢に引き上げられたといいますが、天皇家に伝わる大切な三種の神器を持って海に身を投げるとは、あまりにも自分勝手な振る舞いであると怒る人もいます。余談になりますが、この地方で捕れるヘイケガニは壇ノ浦で沈んだ平家の生まれ変わりとされていますが、まだ刀を差した蟹は捕獲されていません。

(※1)草薙の剣 
  神話によるとスサノオノミコト(『古事記』では建速須佐之男命/『日本書紀』では素戔嗚尊)が「天の岩戸」事件の後、天上界を追われ出雲の国神の娘の櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)と結婚して「八岐の大蛇(やまたのおろち)」を退治しますが、退治した大蛇の中から出てきた剣が「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」です。この神話は大和朝廷による出雲族の帰依を物語るものという説があり、八岐の大蛇退治とは出雲族征伐、あるいは暴れる河川の氾濫に対する治水工事などではないかと言われています。また、八岐の大蛇から出てきた剣は砂鉄のことだろうと言います。出雲地方は古代から製鉄の盛んだったことは考古学上実証されています。
  この剣はスサノオから天上界のアマテラスオオミカミに献上されますが、「天孫降臨」の際に孫のニニギノミコトが携えて天下ってきます。剣は伊勢神宮に奉納されて、ヤマトタケルノミコト(倭建命/日本武尊)が東方遠征の際に、伊勢神宮の斎宮(主祭神アマテラスオオミカミをお守りする皇族の女性)だった叔母から授けられました。相模の国で火攻めからこの剣で草を切り払って逃れたことから、天叢雲剣は「草薙(くさなぎ)の剣」と命名されました。

(※2)天の岩戸事件
  アマテラスオオミカミの弟であるスサノオノミコトは海の国の神でしたが、父の命に背いて暴れ、神に捧げる神衣を織る機屋に天馬の皮を剥いで投げつけて、織女がショックで死ぬという事件が起きました。怒ったアマテラスは「天(あま)の岩戸」に隠れましたが、これが「天の岩戸」伝説です。
  アマテラスが岩戸に隠れて、世の中は真っ暗になり悪霊たちがはびこるようになったため、八百萬(やおよろず)の神々が集まって相談した結果、「常夜(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)」を集めて一斉に鳴かせました。ちなみに、長鳴鳥を集めて止まらせた「止まり木」が「鳥居」になったという説がありますが定かではありません。
  その際に「八咫鏡(やたのかがみ)」を作り、勾玉(まがたま)を集めて「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を作って飾り立てました。また、アメコヤネノミコトが滑稽な祝詞(のりと)を述べ、アメノウズメノミコトが腰を大きく振りながら踊り出し、神々たちが笑い騒ぐので驚いたアマテラスがそっと岩戸を開けると、隠れていたアメノタジカラオノミコトが岩戸を開いて岩戸を遠くに投げ飛ばし、アマテラスを引き出したという神話があります。
  この事件の後、スサノオは神々による審判の結果、鬚を切り、手足の爪を抜かれて、さらに莫大な賠償品を課せられて天上界を追われ、出雲の国に降りたって、国神の娘のクシナダヒメと結婚して「八岐の大蛇」を退治したとされています。

(※3)三種の神器
  三種の神器とは、「草薙の剣」と、「八咫鏡」と「八尺瓊勾玉」をいい、天皇家に代々伝わる宝物です。この三種の神器という言葉が転じて、庶民の生活上大切な、もしくは高価なものとして一般に使われる言葉になりした。日本が敗戦からようやく立ち上がったころ、空前の好景気がやってきて、これを神武(じんむ)天皇(初代天皇)以来の好景気という意味で「神武景気」と言いましたが、庶民の間では白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫を三種の神器と呼んだものです。現代では、さしずめパソコン、スマートホン、3Dテレビ、女子高生は、スマートホン、化粧品、チョコレートといったところが三種の神器でしょうか。
  先日、青年海外協力隊員OBの方々とお会いしましたが、初期のころ隊員たちにも三種の神器があって、たった一人で小さな農村で暮らすのですから、無聊を慰めてくれるラジカセ、唯一の交通手段である単車(業務上ほぼ全員に貸与された)、そして命を守る救急医療カバンの三つだったと言います。ところが、現在の三種の神器はノートパソコン、携帯電話、クレジットカードだそうです。
「協力隊は開発途上国の一般民衆に飛び込んで活動するものですから、派遣された国の教員や警察官など中級公務員の給与を調査して、なるべく低い現地生活費を支給されていました。当然クレジットカードなどを持つ必要はないのですが、娘や息子を心配するバカな親父や母親が自分名義のカードを持たせるケースまであり、派遣する国際協力機構(JICA)側も、トラブルを避けるためかどうか、あまり田舎に派遣したり、理念やら何やらとうるさいことを言わなくなった事もこの風潮に拍車をかけているようです。いったい自分たちは何だったのか、まったくバカげた話です」と嘆いていた昭和40年代の隊員だった人がいました。複雑な気持ちにされられたものです。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.09.27
第8回 冠位と官位

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冠位と官位
  推古(すいこ)天皇が制定した「冠位十二階」はよく知られています。推古天皇より摂政だった聖徳太子が制定したという方が有名かもしれません。聖徳太子は永い間お札で身近な存在だったのですが推古天皇はお札に描かれていませんからでしょうか。この冠位と「官位」とを混同する人がいます。混同しないまでも官位が「官職」と「位階」であることまでは知らない人がいます。
  「冠位」とは、推古(すいこ)天皇11年(603)に12の位が制定されました。これが「冠位十二階」と呼ばれる制度で、貴族の身分を表し、その位によって着用する冠や服装が色で分けられました。
  「官位」は、大宝元年(701)の大宝律令で制定された「官職」と「位階」のことで、人の身分と職制上の身分とを表していました。

 冠位は、官位が制定されるまで何度も改訂されている。大化3年(647)には冠位13階、その後19階、26階、天武天皇14年(685)には冠位48階になりました。この冠位は、位によって着用する冠や服装が色で分けられ、上から徳(紫)、仁(青)、礼(赤)、信(黄)、義(白)、智(黒)の順で、この位にそれぞれ大と小があって12階になります。
  他方、「官位」とは「官職」と「位階」のことで、原則として官職に相当する「位階」を配して等級を定めました。この「位階」は、一位から三位まではそれぞれ「正(しょう)」と「従(じゅ)」があって6階、四位(しい)から八位までは正と従の他に「上(じょう)」と「下(げ)」に分かれるから20階、その下が「初位(そい)」といって「大」と「小」があり、それぞれに上と下があって4階、合計30階です。
  貴族とは五位以上の者を指しますが、この者たちは宮殿に上ることを許された「殿上人(てんじょうびと)」と呼び、この殿上人でも三位(さんみ)以上を「公卿(くぎょう)」という上級貴族です。官職でいえば大臣、大・中納言、参議のクラスですが、たとえ三位以下の位階でも参議などの官職であれば公卿と言いました。六位以下の者は「地下人(じげびと)」と呼ばれた。また、皇族にも官位があって、一品から四品までに分かれていました。皇族は品があるから上品な人の順から一品、二品と付け、貴族どもは下品だから品を付けない、というわけではありません。品は「ほん」と読み、品がない皇族でも一品になれます。
  位階は何も人間に与えられただけではありません。神さまにも位(神位または神階)を付けました。正一位から正六位上まで15階ありますが、よく知られているのは正一位稲荷大明神でしょう。また、ゴイサギという鳥がいますが、この鳥は醍醐(だいご)天皇(※1)が池にいるこの鳥を見て家来に捕まえさせたところ、逃げもせず捕らえられたので、神妙だといって五位を授けたからゴイサギと呼ばれました。たぶん、この鳥は疲れたか病気かで飛べなかったのでしょう。鳥だって狐だって官位が貰えたのです。
  中央官庁(※2)の太政官の長官にあたる官職は太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣で、正一位から従二位、次官には大納言、中納言、参議で正三位から従四位が相当しますが、業務を行う役人の官職には4階級(※3)あり、一般には長官(かみ:役所によっては頭、守などと表記する)、次官(すけ:助、輔、介など)、判官(じょう:尉、丞など)、主典(さかん:目など)といい、その下に雑任(ぞうにん)という下級官僚が所属していました。そのほとんどは正四位以下の位でした。
  平家一族(平清盛一家)が台頭するころまでの武士は上級貴族ではなかったから、こぞって上級官職を欲しがりました。また、江戸時代になってからは、武士は公卿に媚び、袖の下を使い、公卿は仲介料で稼ぎました。こうして、官職は形式上のものになっていきました。
  現代の政府においても、大臣が粗製乱造日替わりメニューみたいになり、権威も名誉もなくなりましたが、議員が大臣の椅子が欲しくて権力者に媚びるのと同じで、実力が伴わないのに大臣になって舞い上がり、「不適切」な言動で、せっかく手に入れた椅子から転げ落ちるのが悲しいですね。

(※1)醍醐天皇
  第60代天皇で在位897〜930ですが、この醍醐天皇による治世の評価は高く、たとえば在任中は摂政や関白を置かなかったり、有名な『延喜式』などの編纂や、班田の励行とか院や王臣などによる山野の占有などを禁止したりして、後年「延喜の治世」と呼ばれました。しかし、この業績も菅原道真(すがわらのみちざね)を大宰府に左遷したことや、その後に起こる天変地異などが菅原道真の怨霊によるものとして、醍醐天皇はだいへん後悔して、そのため晩年は病についてしまい、まだ8歳の皇太子に天皇の位を譲って一週間後に死去してしまったことの方が有名で、立派な業績もこの事件の陰に隠れてしまった気の毒な面もあります。

(※2)中央官庁
  当時の中央官庁には2官8省1台5衛府がありました。2官とは神祇祭祀を司る「神祇官(じんぎかん)」と国政に携わる「太政官(だじょうかん)」を指す言葉で、その下に天皇の侍従や宮中業務を掌る「中務(なかつかさ)省」、文部省などにあたる「式部(しきぶ)省」、外交や寺院などを掌る「治部(じぶ)省」、戸籍や租税など財政を掌る「民部(みんぶ)省」、防衛省にあたる「兵部(ひょうぶ)省」、検察庁や裁判所にあたる「刑部(ぎょうぶ)省」、物価、出納などを掌る「大蔵(おおくら)省」、宮中の衣食住などを掌る「宮内(くない)省」の八省と、行政監察を行う「弾正台(だんじょうだい)」、また左兵衛府(さひょうえふ)、右兵衛府(うひょうえふ)、左右衛門府、左近衛府(さこのえふ)、右近衛府(うこのえふ)の五衛府があり、ほかに東宮(とうぐう)職や馬寮(めりょう)、検非違使庁(けびいしちょう)などがありました。なお、地方官庁として国司(こくし)や太宰府(だざいふ)、鎮守府(ちんじゅふ)などがありました。

(※3)役人の官職
   役人の官職には四つの階級ありました。一等級は「かみ」、二等級は「すけ」、三等級は「じょう」、四等級は「さかん」と呼ばれました。漢字では役所などによって表記が違っていました。たとえば、中務省や式部省などの多くの省では「かみ」は「卿」、「すけ」は「輔」、「じょう」は「丞」、「さかん」は「主典」と標記されましたし、省内に置かれた多くの寮(役所)では「頭」、「助」、「允」、「属」で、弾正台では「尹」、「弼」、「忠」、「疏」で、「かみ」以下にはそれぞれ大と小がありました。また、左右の衛門では「督」、「佐」、「尉」、「志」、近衛では「大将」、「中将」、「少将」、「将監」などで、ここから日本帝国陸海軍の将校の位である「大将」、「中将」、「少将」、「大佐」「中佐」、「少佐」、「大尉」、「中尉」、「少尉」の称号が付けられました。なお、国司などの地方官職では「かみ」は「守」、「すけ」は「介」、「じょう」は「掾」、「さかん」は「目」と標記されましたし、大宰府では「帥」、「弐」、「監」、「典」というように標記されました。
  有名な歌人の西行法師は、役人だったころは佐藤義清(さとうののりきよ)といって、衛府の判官にあたる尉(じょう)だったから佐藤兵衛尉(ひょうえのじょう)義清と呼ばれました。また、源義経が九郎判官(はんがん、ほうがん)と呼ばれたのは、位階が検非違使庁の3番目にあたる判官に叙せられたからですし、江戸時代に有名な大岡越前守(えちぜんのかみ)は越前国(福井県)の国司長官である守(かみ))に叙せられたからであり、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(たくみのかみ)は中務省内匠寮(たくみりょう)の長官である頭(かみ)に叙せられたからで、また主君の仇打ちを果たした家老の大石内蔵助は、内蔵寮(くらりょう)の次官である助(すけ)に叙せられたからです。
  江戸時代の貧乏長屋に住む町民の名前にあるような、太助、とか与助などの「助」は朝廷から与えられた官職名ではありません。将来この子が偉くなるようにと、本当は「守」とか「頭」とかを付けたいところですが、しょせん無理だろうから、せめて「助」でもと思って付けた親心なのでしょうか。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.09.06
第7回 大和魂と大和心/右近の橘と左近の桜

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大和魂と大和心
 「大和魂」とか「大和心」などという言葉がよく使われます。この違いを多くの人たちに聞いてみたのですが、「大和魂」とは「日本古来の伝統的な精神」と言われて、明治以降「国のためにつくす心」で、「大和心」とは「日本人らしい素直な心」という意味だと、ほとんどの人が言います。また、「大和心」の方が「大和魂」に比べて優しい感じがするという人も多いようですが、それは本居宣長が詠んだ「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」という歌の影響であろうと思われます。間違いではありませんが、どちらの言葉も本来は同じ意味の言葉なのです。この二つの言葉は平安時代から使われたようですが、現在ではその当時とはかなり違った意味になってしまいました。

 「大和魂」という言葉をはじめて使ったのは、紫式部が『源氏物語』の中においてです。当時中国から入ってきた知識や学問をそのまま使うのではなく、日本の実情に合わせて使うべきであるという意味だったのですが、江戸時代になって本居宣長により、「日本固有の心」という意味が附され、だんだん国粋主義的な言葉に変わっていきました。
  「大和心」は日本人の精神の象徴であると言われ、南北朝時代の忠臣といわれた楠木正成(くすのきまさしげ1294〜1336)(※1)のように、天皇に忠誠を誓い桜の花のように美しく散るのが武士だということで、「花は桜木、人は武士」という言葉が江戸時代から太平洋戦争時まで教育の場でも使われてきました。
  その結果、学校はじめ日本全土に桜の木が植えられました。そして「大和魂」も「大和心」も軍国主義的な言葉に使われるようになって、多くの人が太平洋戦争で爆弾を抱えて敵の艦隊や敵陣に体当たりしていった悲しい歴史があります。毎年花見に浮かれている若者たちは、こういった暗い過去を知っているのでしょうか。「そんなことは関係ねえ」と嘯く若者もいるかもしれませんが、日本各地に桜の花が植えられている理由くらいは知っておいた方がいいと思います。

(※1)楠木正成
  楠木正成は後醍醐天皇の挙兵に参陣して戦った武将で、足利尊氏や新田義貞などと共に鎌倉幕府を倒しました。その後、足利尊氏追討の命を受けた新田義貞に従い、わずか700騎で数万の足利軍を湊川(現在の神戸市)で迎え討ち、激戦の末亡くなりました。南朝方の楠木正成は朝敵となりましたが、その後赦免されて、江戸時代には忠臣として讃えられるようになりました。
  湊川の決戦に赴く楠木正成は、敗戦を予想していたといわれ、父に従おうとする嫡男の正行(まさつら)に「生き延びて再起を期せ」と諭して帰す「桜井」の情景をうたった「青葉茂れる桜井の‥‥」という歴史歌「桜井の決別」は、多くの日本人の心をとらえ親しまれてきました。なお、桜井は現在の大阪府にあった西国街道の宿駅だったと言います。

右近の橘と左近の桜
 京都御所の紫宸殿(ししんでん)の庭には、向かって右に桜の木、左手に橘の木が植えられていますが、これらの木は「右近の橘、左近の桜」と呼ばれています。御所の中を見たことがない人でも、3月に家庭で飾るひな段にもひな道具の一つとして、左右に飾られていますから知っている人も多いのですが、橘と桜は、どちらが右側だったか左側だったか混乱している人や、「右近の桜」と記憶している人も多く、なかには、「ウコンザクラ」という淡い鬱金色をした花を咲かせる桜を「右近の桜」だと思いこんでいる人もいます。また「位置が反対だ、右近の橘だから向かって右にあるのが橘だろう」と文句を言う人がいますが、天皇は紫宸殿において南を向いて座っていました。寺に安置された本尊などもそうですから、ほとんどの寺院仏閣は南に正門があるわけです。したがって、天皇から見て右とか左とか言うわけです。

 「右近の橘」と呼ばれたわけは、紫宸殿南側の階段下の西の方に「右近衛府(うこのえふ)」の衛兵が警護していたことから、「右近の橘」と呼ばれました。その反対側に桜が植えられていたから、その桜は「右近」に対して「左近」の桜と呼んだと言われています。『古事記』や『日本書記』によれば、垂仁天皇(第11代天皇、在位BC29〜AD70)が多遅摩毛理(たじまもり:田道間守)に命じて、「ときじくのかぐのこのみ」を取ってくるように命じました。この実は不老不死の木の実だと言われており、一説によればこの木が橘ではないかとも言われています。
  また、左近の桜については、もともとは「梅の木」が植えられていましたが、その梅が枯れたり焼けたりしたので、村上天皇(第62代天皇、在位946〜967)が桜に植え替えたということです。なぜ紫宸殿の庭に橘と梅(桜)が植えられたのか定かではありませんが、橘は不老長寿の縁起が良い木ですし、黄泉の国に行ったイザナキノミコトは腐って醜くなったイザナミノミコトから逃げる際に桃の実を投げつけて、ようやく逃げ帰ることができたといいますから、梅の実は霊力があるものとされています。したがって現在でも鬼門にあたる方向(北東)には鬼門除けとして梅の木を植えることが多いようです。
  こういった左右に関する間違いは、ひな飾りのお内裏さま(天皇)とおひなさま(皇后)の立っている位置にも言えます。古くからのしきたりをしっかり親から受け継いでいる人は別ですが、多くの若者たちが迷うのも致し方のないことでしょう。この立ち位置は関東と関西では左右が逆で、関東では向かって左がお内裏さまですし、関西では向かって左に立っています。その理由は、むかしは左が上位であり、右が下位だったことによります。たとえば左大臣と右大臣では左大臣の方が偉かったのです。(※1)明治以降西洋風を取り入れて右が上位となった経緯があって、それで立ち位置が違ってくることから混乱を招いているわけです。

(※1)左大臣と右大臣
  左大臣と右大臣については、当然右大臣の方が上位だと思っている人が多いようですが、右大臣より左大臣の方が位は高かったのです。日本の律令制における中央官庁には2官8省1台5衛府がありました。この2官とは神祇祭祀を司る「神祇官(じんぎかん)」と国政に携わる「太政官(だじょうかん)」をいいますが、この太政官の長官職に太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣がおり、官位は正一位から従二位くらいまでの最高位の公家でした。太政大臣は常時置かれたわけではないので、左右の大臣は事実上の最高位でした。そして、左大臣の方が右大臣より上位でした。
  現在では一般に左よりも右の方が優先されます。「座右の銘」、「右腕」、「右に出る」などという言葉がありますが、「左遷」、「左前」、「左巻」などと、左の方は良い印象がありません。また、イスラム社会では、「左手は不浄の手」とされて、食事の時も手づかみで食べる際は決して左手を使わないし、歩き出すのも右足からと決まっています。英語のrightは「右」という意味だが「正しい」という意味もあります。ラテン語で「右利き」は「器用」とか「利口」の意味があり、「左利き」には「不吉」とか「不幸」の意味もあります。
  しかし、この時代では左の方が上席でした。古代日本では、イザナキノミコト(伊耶那岐命/伊弉諾尊)の左目から第一子アマテラスオオミカミ(天照大御神/天照大神)が生まれたとされているように、左の方が上位です。また、左大臣の方が右大臣より偉いのは、古代中国の影響によるものと思われます。これは古代中国の易学からきている「陰陽五行説」の左が陽で右が陰としているところからだという説もあります。一説には、上位の者すなわち左大臣は君主の左側に位置します。君主が座る位置が南を向くから、君主の左は東です。つまり陽が昇る東の方が陽の沈む西より上位だからだと言う説もあります。
  現代社会で、基本的には右社会なのは、右利きの人が多いこともその理由だろうと思われますが、昔の武士や西欧の騎士は刀を左に差していました。その理由は、右手で刀を抜くからです。武士は道路の左端を歩いたのは、左側を歩けばとっさの場合に抜き打ちができるからでもありますが、刀が触れあうことを避けるためでした。刀の鞘が触れあうのを「鞘当て」といって、場合によれば果たし合いにもなりましたが、「恋のさやあて」などの「さやあて」はこれが語源です。
  西洋でもイギリス騎士も同じ理由で左端を歩きましたが、フランスのナポレオンは左利きだったため、占領地ではナポレオンにならって右側通行になりました。これが現在の交通事情につながって、馬車から車社会になった欧米では車は右側通行になったという説もあります。徒歩や駕籠からいきなり車社会になった日本では、イギリスにならって左側通行になりました。現在英国領の国も、陸続きの隣国などとの関係で、多くの国では車は右側を走るようになりましたが、国境が陸続きではない日本やイギリスは、遠慮なく左を走ることが出来るのです。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.08.05
第6回 高天原と葦原中国

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高天原と葦原中国
  神話などでは「高天原(たかまがはら)」とか「葦原中国(あしはらのなかつくに)」という言葉がよく登場します。子供のころから神話に親しんできた人には、この違いはわかると思いますが、なかには高天原のなかに葦原中国があると言った人も少なくありません。それ以上突っ込んで聞いてみても、「神さまの住んでいるところで、われわれとは関係ないところだから知っている必要がどこにある」と開き直られる始末ですが、そう言わないで、もう少しだけおさらいしてみましょう。

 「高天原」は天上界を指し、アマテラスオオミカミ(天照大御神/天照大神)など天津神(あまつかみ:天界の神)が住んでいました。「葦原中国」は、高天原と黄泉国(よみのくに)の間に存在する世界で、通常は日本の国土を指し、オオクニヌシノミコト(大国主命)などの国津神(くにつかみ:地上界の神)がいたということになっています。葦原中国は出雲地方を指すという説や、奈良県の橿原あたりだという説、また邪馬台国論争とからめて、高天原を九州、葦原中国は畿内という説など諸説ありますが定かではありません。
  天上界のアマテラスオオミカミは、地上に正当な統治者を送り込むことになり、孫のニニギノミコト(邇邇芸命/瓊瓊杵尊)天下ってきます。これが天孫降臨(※1)とか国譲りとか言われる神話です。アマテラスは高天原を治めていたと言いますが、高天原とはどこか諸説があります。天上界であるという説がこれまで一般的でした。しかし、最近は高天原地上界説が盛んで、それは卑弥呼や邪馬台国論争と相まって、大和朝廷の成立過程と大きく関係するからでしょう。
  この地上説の中には高天原外国説があります。新井白石は、タカマガハラを「高海原」と書いて南海の島々の民族だと言っています。後には南海説が飛躍して、ムー帝国説やアトランティス大陸説まで飛びだしてきました。浦島太郎の竜宮城がまさに南海の高天原だと言う人もいます。また、元禄3年(1690)に来日したドイツ人医師エンゲルベノレト・ケンベノレという人は、高天原は古代オリエント(中東)(※2)のバビロニアだろうと言っています。それ以降にも、紀元前2000年以上昔に栄えたアッカド王朝だったと考えた人や、エジプトであると言った人もいました。
  モーセはエジプトからユダヤ族などヘブライ12部族を連れて、神から約束された「カナンの地」(現イスラエル)を見下ろせる「モアブの丘」(ヨルダン)で120才の生涯を閉じますが、モーセは天空を駆ける舟に乗って日本に来て、583才で亡くなったという説があります。石川県押水町にある宝達山の三つ子塚古墳が、モーセの墓だと言われています。また、日本人の起源はシュメール人だという説もあります。それによると、メソポタミア文明発祥の地は遠く中東で、最初に文明を築いたシュメール人はアッカド人などに滅ぼされて、以後行方不明なのですが、シュメール人は日本に渡ってきたと言うのです。じつは、このシュメールという言葉は、本来は「スメル」と発音するのですが、天皇を「スメラミコト」と称しましたので、天皇が異国人であってはならないという理由から、あえてスメルではなくシュメールと読ませたとの説があり、このことが日本人シュメール説の根拠となっています。世の中はなんでも言ってみるものです。根拠は後から探せばいいのですからね。

(※1)天孫降臨
  天上界のアマテラスは神々の合同会議を開いて地上界に正当な統治者を送り込むことになり、国譲りの使者として次男のアメノホヒノミコト(天之菩卑能命)を送りますが、オオクニヌシノミコト(大国主命)はアメノホヒを上手く籠絡してしまいます。そこで、アマテラスは次の使者としてアメノワカヒコ(天若日子)を送るのですが、これには娘のタカヒメノミコト(高比売命)を妻に差し出して釘付けにしてしまう。アマテラスは、アメノワカヒコに「どうなっているんだぁ!」といって使者を送りますが、使者は矢で射られてしまい、アマテラスは雷神・剣神のタケミカヅチノオノカミ(建御雷之男神)と船神のアメノトリフネノカミ(天鳥船神)を送り込んで、ようやく説得に成功しました。
  こうしてアマテラスの孫のニニギノミコト(邇邇芸命/瓊瓊杵尊)が天下ってきます。アマテラスの孫が天下ってくるから「天孫降臨」とか「国譲り」とかいわれる神話なのですが、ニニギは、正式にはアメノニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命)という長い名前の神さまです。
  このときニニギノミコトに従った神の一人が「天の岩戸」事件の際にストリップまがいの踊りをして、驚いたアマテラスが隠れていた洞窟から顔を出したという踊りの上手なアメノウズメノミコト(天宇受売命)であり、地上界で道案内したのがサルタビコノミコト(猿田毘古神/猿田彦命)という道祖神信仰や庚申講信仰と結びつく地上神で、二神は後に結婚することになります。
この天孫降臨は、高級官僚の「天下り」という言葉の語源でもありますが、そのスケールの壮大さは官僚の天下りとは比べものになりません。ひところ、高級官僚や公社・公団の幹部が数千万円もの退職金をも貰っていながら、いくつかの関連団体を回ってその都度、更に高額の退職金をもらっている現状を、新聞やテレビで報道されて大問題になりました。ただ、官僚のみんながそうだというわけでもないし、また公務員法にがんじがらめに縛られている現状下で、もしも民間よりも給与が安くて、世間から公僕だの税金泥棒などと陰口をたたかれて、しかも早くから退職させられても働くところがないようだったら、だれだって公務員なんかになろうとは思わないでしょう。テレビなどで高いギャラをもらって偉そうに喋りまくる評論家や、その尻馬に乗っかるキャスターと名乗るアナウンサーは、あたかも公務員は自分個人の召使いのごとく思っているやに見受けられ、また社会保険料や税金をごまかしたりしている人までもが、一様にテレビカメラの前で「私たちの税金で‥‥」などと言っていますが、醜い人間の性を見せつけられている様で、情けない話ですね。貧乏人のひがみと言われるかもしれませんが、自分だけはそのようになりたくないと思うのです。
  オオクニヌシは、因幡の白兎伝説にあるように、大変優しい神さまだと言われていますが、地上界の葦原中国をアマテラスに譲る際には、なかなかの力量を発揮しているようです。『古事記』では交換条件として新たな統治者と同規模な建物を要求したと言われています。つまり、領有権は譲るが祭祀権は譲らないとオオクニヌシは頑張ったのです。
  出雲大社は、本殿の高さが24メートルありますが、2000年4月に昔の本殿を支えた巨大な柱の残骸が発掘されました。実際に私も見てきましたが、この柱は直系1m以上の丸太を3本束ねて1本の柱にしており、株式会社大林組がコンピュータで復元した結果、高さ30m、長さ109mで170段の階段が必要となることがわかり、現在の2倍の48メートルあったという伝承とほぼ一致することが判明しました。伝承に依れば、太古の時代では地上から屋根まで高さが100m近くあったとも言われています。出雲大社はバビロンの塔(ジグラット)に勝るとも劣らない空中神殿だったのです。高いところが好きなのは、山羊と何とかだと言ってバカにしている人は罰が当たりますよ。
  それにしても古代人はどのようにしてこのような巨大な建物を建造したのか、その技術は未だにわかっていません。じつは、古代人は文明の進んだ星からやってきた宇宙人だったのですが、このことは、私が事故で頭を強打してしばらく入院していた脳神経外科の同室の人から聞かされた話です。

(※2)オリエントと中東
  一般的に「中東」と言ったら、東はイラン高原から西はサハラ砂漠まで、北はカスピ海沿岸から南はアラビア半島までの広範囲にわたっていますが、この地方はもともとヨーロッパでは「オリエント」と呼ばれていました。オリエントとはラテン語の「オリエンス(昇る)」からきた言葉で、太陽が昇る方向すなわち「東方」を意味しています。
  「中東」という表現は、イギリス人による「ミドル・イースト(Middle East=中東)」からきています。中世イギリスではインドや中国を指して「イースト(East=東洋)」と呼んでいました。イギリスは早くからアジアの植民地支配を目論んでいました。特に17世紀以降、産業革命を成し遂げたイギリスがインドや中国に支配の伸ばしたのは、そこが香辛料とお茶の主要生産地だったからで、そのため中継地として現在の中東地域の支配が必要だったのです。その結果、現在起きているパレスチナ問題や一連の紛争の大きな要因の一つになったのですが、その話は別の機会にしましょう。
  そういったわけで、イースト(東洋)がインドを中心とした東南アジアだとすれば、イーストから西のヨーロッパとの中間に位置する地域はミドル・イースト(中東)ということになります。そこで、「中東」という言葉が出てきました。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.07.10
第5回 『古事記』と『日本書紀』

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『古事記』と『日本書紀』
 『古事記』と『日本書記』とは日本最古の歴史書ですが、両書の違いはどこかを知っている人は少ないようです。なかには、どちらも同じもので、呼び方が違うだけだ、と答えた人もいました。そんなバカな!と思う人もいるでしょうが、面倒がられ嫌われた調査(と言えるほどのものではありませんが)事実なのです。ですから、同時代に同じ天皇の命令で作られた書だとか、なぜ二冊の歴史書が作られたのか、などのことは知らない人がいるは当然でしょう。こういったことは、外国人に質問されてみて初めて「はてな‥‥」と思う人が普通なのですが、「知らない」などと言うのも恥ずかしいし癪だから、適当なことを言って、さまざまな誤解を招くようなことを教えてしまう人もいるようです。こういった見栄を張ることだけはやめましょう。  『古事記』は長い間皇室や氏族などに受け継がれてきた伝えをまとめた歴史書です。天地創造から推古天皇(第33代天皇)までの伝記を漢字の音(おん)を使った文字で記録しています。稗田阿礼(ひえだのあれ)が整理・誦習し、太安万侶(おおのやすまろ)が筆記して712年に成立しました。
  『日本書記』は大勢の学者によって40年を費やして編纂された歴史書で720年に成立しました。天地創造から持統(じとう)天皇(第41代天皇)の時代までを漢文で書かれています。多くの学者によって編纂されたらしいのですが、その氏名は記されていません。どちらも8世紀、天武(てんむ)天皇(第40代天皇)の命によって編纂されました。両書をまとめて『記紀』と呼ばれています。なぜ天武天皇は二冊も歴史書を書かせたのかは不明ですが、どうも『日本書紀』は中国の『史書』にならって外国向けに作成され、『古事記』は国内向けに編纂されたのではないかと考えられています。
  音(おん)による『古事記』と漢文による『日本書紀』では、人名などの表記に若干違いがあり、たとえばアマテラスオオミカミは、『古事記』では「天照大御神」、『日本書紀』では「天照大神」、ヤマトタケルノミコトは、『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」などと表記されています。また、漢字だけでなく内容にも若干の違いがありますが、初代天皇の神武(じんむ)天皇(紀元前660年)以前の話を「神代(かみのよ)」(※1)と呼び、神武天皇からは人間社会として考えられていたようで、日本の誕生(※2)やアマテラスの誕生(※3)などから始まる「神話」と称するのは神武天皇以前の話です。
  日本が文献に現れてくるのは、中国の『漢書』の『地理志』です。前漢(紀元前206〜紀元8)の時代で「倭国は百余国に分かれている」と書かれています。また、後漢の建武中元2年(57)に「倭の奴国が朝貢してきた」とあります。この時、漢の光武帝が金印を贈ったといいますが、それが教科書に登場する「漢委奴国王」の金印だと思われています。同じ後漢の107年には、倭の国王たちが奴隷16人を献上した記録がありますが、これらは、『後漢書』の『東夷伝』に書かれたものです。
  有名な『魏志倭人伝』は、『魏書』の中の『東夷伝』の『倭人の条』のことです。『魏書』は三国時代の魏がまとめた公式の歴史書で、3世紀末、中国の晋王朝の史官である陳寿が書いたとされる『三国志』のひとつです。古代中国では代々天下を統一した王朝が自国の歴史書を編纂してきました。当然自国と皇帝の都合のいいように書かれているとは思いますが、そもそも中国は自分たちだけが礼儀正しく立派だから「中華」であって、回りは南蛮(なんばん)、東夷(とおい)、西戎(さいじゅう)、北鍬(ほくてき)という野蛮人が住んでいると考えていました。つまり、朝鮮半島の人や日本人は東夷、すなわち東に住む野蛮人だと思っていましたから、4000年の歴史を持つ中国から見れば、日本なんぞはごく最近のし上がってきた成り上がり者なのです。だから、明治から昭和にかけて、日本人に武力で言うことを聞かされてきた中国人には耐えられない屈辱なので、日中外交においても、常に「過去の不幸な歴史」という枕詞をつけるのはそのため、かもしれません。
  『古事記』や『日本書紀』は、どちらも天皇の命令によって書かれた歴史書ですから、天皇家の都合のいいように書くこともあったかもしれないし、また神武天皇が即位したのは紀元前660年だとしていますが、そのころ日本は縄文時代です。『魏志倭人伝』に出てくる卑弥呼(西暦240年頃)ですら、弥生時代後期だから、『記紀』の信憑性を疑問視する学者も多いわけです。しかし、『旧約聖書』だってユダヤ人の苦難の闘いを自分の民族中心に書いた伝説です。『魏志倭人伝』など中国の『史書』だって、自国や皇帝の都合のいいように書いていることでしょう。『古事記』や『日本書紀』などの文献も、時がたてば記述を裏付けたり、間違いがあれば明らかになったりすることでしょう。「外国の文献は正しくて日本の記録はいいかげんだ」と言う人は、戦前では「非国民」といって処罰されました。今は言論の自由という「錦の御旗」の下に勝手なことが言えますが、しかし、このような文書が日本にも残されていたことを、日本人は素直に自慢して良いのではないでしょうか。

(※1)神代
  『古事記』によれば、天と地が分かれてまだ水に浮かぶクラゲのようなふわふわした状態のとき、天上界の高天原(たかまがはら)に最高神・天之御中主神(アメノミナカメシノカミ)、天上界の創造神・高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、地上界の創造神・神産巣日神(カムムスビノカミ)が現れ、次ぎに命を吹き込む神・宇麻志阿斯詞備比古遅神(ウマシアシカビヒコジノカミ)、天上界の永久を守る神・天之常立神(アメノトコダチノカミ)という性別のない神が現れ、そしていつの間にか消えていきました。この五神を特別な神として「別天神(コトアマツカミ)」と呼んでいますが、『日本書紀』にはこの神々は登場していません。
  その後、国土を永久に守る神・国之常立神(クニノトコダチノカミ)、二代目の豊雲野神(トヨクモノノカミ)が現れます。この二神はどちらも独り神ですが、三代目からは次々と男女二神ずつの神が現れて、七代目に男女がお互いに求愛する男神・イザナキノミコトと女神・イザナミノミコトが現れました。この二神と五組の神々を「神世七代(カミヨナナヨ)」と呼んでいます。

(※2)日本列島の誕生
  イザナミがイザナキに向かって「なんといい男なンだろう」と言い、その後にイザナキがイザナミに「なんといい女なンだろう」と言ってから契ったら、出来た子供(島)は流産で、次の子供も満足な島になりませんでした。そこで、立場を逆にして、男であるイザナキから先に言葉を発したら良い島ができました。このことから、女性から先にプロポーズをするものじゃないとか、何事も男性が優先なのだと主張する人もいるようです。この人たちは、女性の恐ろしさを知らないのでしょう。いずれ手痛い仕打ちを受けることになるでしょうから、私はそういうことは思っていても決して口にしません。
 
(※3)アマテラスの誕生
  日本列島を生んだ男神・イザナキと女神・イザナミは、その後も次々と自然界に必要な神々を生みましたが、火の神・火之迦具土神(ホノカグツチノカミ)を生んだ時に、イザナミは陰部を火傷して死ぬ。すると、イザナミが火傷を負って苦しくて吐いた反吐や糞尿からも、また、怒ったイザナキが首を切った火之迦具土神の死体や、剣から滴った血からもたくさんの雷神や剣神が生まれました。
  イザナミは死んで「黄泉国(よみのくに)」に行ってしまうのですが、妻を忘れられないイザナキは、後を追って黄泉国に行きます。しかし、そこに見たものは腐敗してウジがわいているイザナミの醜い姿でしたから、恐れおののいたイザナキはあわてて逃げ出すのでしたが、怒ったイザナミと黄泉の魔軍たちが追いかけてくるのを、桃の実を投げつけて、ようやく逃げ帰ることができたといいます。イザナキは夫婦の縁を切ると宣言すると、怒ったイザナミは毎日1000人の人間を殺すと叫んだので、イザナキは毎日1500人の子供を産ませようと言いました。これが史上初の離婚と生死に関する話です。
  イザナキは、穢れを清めるために日向の国(宮崎県)橘の小門というところで禊ぎ(みそぎ)をしました。このときに身につけていた衣服や装身具からも、次々と神さまが誕生し、イザナキが最後に洗った左目から日神アマテラスオオミカミ(天照大御神/天照大神)、右目から月神ツクヨミノミコト(月読命)、鼻から海神スサノオノミコト(建速須佐之男命/素戔嗚尊)が生まれました。
  アマテラスは後に天皇家の祖先となり、月神のツクヨミは日神のアマテラスとともに農林水産などの神さまとして祀られていますが、スサノオは父の命に背いて暴れ、最後は天界を追われて出雲の国に追放された。スサノオはアマテラスやツクヨミと同時に生まれたのに、自分だけが目からではなく鼻から生まれたので、ハナはだ面白くなかったのかもしれませんね。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.06.06
第4回 墳墓と古墳

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墳墓と古墳
  「墳墓」とか「古墳」という言葉は、いずれ誰しもがお世話になるところなのですから、よく知られていますが、現在の墓地埋葬法では「死体を埋葬または焼骨を埋蔵する施設」を「墳墓」と呼びます。「古墳」とは文字どおり古い時代の墓のことですが、もう少し詳しくおさらいしてみましょう。
  古墳は、一般的には3世紀から7世紀にかけて造られた墳墓を指す言葉ですが、考古学上ではもっと限定しており、3世紀から7世紀の、土や石で丘を造り、その中に埋葬設備をほどこして遺体や副葬品を埋葬した施設全体を指す言葉です。日本の歴史区分ではこの時代を「古墳時代」と呼んでいます。
 
  縄文時代には死体は貝塚に埋められていたり、小さな子供は縦穴式住居の入口に埋葬されたりしていました。縄文時代後期から弥生時代にかけては一定区画に葬られて、場所によっては大きな土器の甕に死体を入れて、同じような甕を上からかぶせて埋葬する風習があります。これを甕棺(かめかん)と呼びます。弥生時代の後期になると、古墳の原型ともいわれている墳丘墓が造られます。その後はだんだんと古墳が巨大化して、現在大阪堺市にある大仙古墳は、全長486メートル、3重の濠の内側だけでも面積が46万5千uもあり、エジプトのクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳丘より墓域の面積が大きくて世界最大です。5世紀中頃の前方後円墳で、仁徳(にんとく)天皇(第16代天皇)の御陵だと伝えられていますが、学問上は特定できていません。
  古墳にはお椀を伏せたような「円墳」が最も多い形ですが、そのほかに真四角な「方墳」、円墳と方墳とを連続させたような「前方後円墳」、あるいは方墳の上に円墳を乗せたような「上円下方墳」、円墳の両側に方墳を連続させた「双方中円墳」などがあります。そして、鏡や玉、環などの装飾品や刀剣、甲冑などの武具武器、あるいは農具、漁具などの生活用品などが埋葬され、同時に埴輪などが発見されますが、埴輪(※1)は殉葬(殉死者の埋葬)という風習の代わりに作製されたと『日本書記』にあります。しかし、近年の研究では、墳丘部や裾の部分で多く発見されていることから、かならずしも殉葬の代用ではないと考えられています。また、巨大古墳と出土する副葬品の鏡などについては、邪馬台国論争(※2)の的にもなっています。
  巨大古墳は、なぜか5世紀を頂点に、その後は小型の円墳が主体となってきます。そして、7世紀には古墳自体が見られなくなりますが、大化2年(646)に手厚い埋葬を禁じる「大化の薄葬令」によって、貴族杜会にも細かな埋葬規定が定められたことや、仏教の影響で火葬が浸透したことも原因で、だんだんと古墳のような埋葬形態が減少していったものと思われます。
  奈良県には5000以上の古墳があります。現在、宮内庁が管理している天皇・皇后の陵墓は200ヶ所近くあり、皇子・皇女の墓を合わせると数百ヶ所になると言われています。発掘調査が出来ればかなりのことがわかるのでしょうが、残念ながら天皇家のお墓を勝手に掘るわけにはいかないのが現状です。
  昭和47年(1972)、奈良県明日香村にある高松塚古墳で、極採色に彩られた壁画が発見され、大きな話題となりました。男女の人物群像、四神、日、月、星宿などが描かれていましたが、人物群像があまりにも衝撃的だったもので、人物像だけが大きく報道されました。その後、同じ明日香村で発掘されたキトラ古墳の玄室(遺体を納めた部屋)で、北面の壁に玄武(げんぶ)という亀に蛇が絡んでいる神獣の壁画を皮切りに、東面の壁の青龍、西面の壁の白虎という想像上の神獣を描いた壁画が次々と確認され、平成13年(2001)には南面の壁に朱雀の絵が確認されて大騒ぎになりました。玄武は山、青龍は大河、白虎は道、朱雀は水を意味していると言われており、古代中国の陰陽道の四神相応という思想からきています。古代の都の建設にはこの思想に則って行われてきましたし、現在でも大相撲の土俵の上から下がっている赤、白、黒、青の房もその思想からきています。また、玄室の天井には、北極星や北斗七星をはじめとする天体図が描かれていますが、これは東アジア最古の天体図だとも言われています。
  ところで、古墳といえば高松塚古墳や将軍塚古墳などいろいろな名前の古墳が各地にありますが、キトラ古墳とは変わった名前であり、しかもカタカナも珍しい。あるとき、最初に盗掘した墓泥棒が古墳に穴を開けたところ、亀(玄武)と虎(白虎)の絵を見てびっくりして逃げ帰ったということが村人に伝わって、そこからキトラ(亀虎)古墳と名付けたという話を聞きました。しかし、知人の考古学者によると、古墳の周りの地名が字「北浦」だから、それが変じてキトラになったのだと言いますが、考古学は古い事柄を調べて古代を探求する夢のある学問だから、地名よりも墓泥棒の亀と虎の話の方がずっと夢のある話であると思うのですがね。

(※1)埴輪
 「埴輪(はにわ)」は古墳時代に作られた主に古墳の周囲から発見される土製品で、円筒形埴輪や人物、動物、あるいは家や船などの形をした形象埴輪があり、その用途には議論が分かれるところです。円筒型をした埴輪は主として墳墓の聖域を区画するためで、形象埴輪は生前の様子を再現したと考えられています。人物をかたどった埴輪は、殉死者を埋める代わりに土製の人馬を立てたということが『日本書紀』にもあることから、これが埴輪の起源とする説が採られた時期もありましたが、現在では否定的で、祭祀、葬送儀礼の慣習ではないかと考えられています。
  変わったところでは、平成12年(2001)に松阪市宝塚で発見された船の形をした埴輪は、全長140pの日本最大の船型埴輪です。また、奈良県桜井市のメスリ山古墳の円筒形埴輪は、全長242p、最大直径90pで、これも国内最大の円筒形埴輪です。また、埼玉県江南町の野原古墳群からは、「踊る男女の埴輪」が発見されていますが、これら形象埴輪の形や文様などにより、古代の生活や風習がわかる貴重な資料でもあります。

(※2)邪馬台国論争 
  中国の『魏志倭人伝』に出てくる「邪馬台国」の位置を巡って、昔から学者の間で大きく議論されていますが、多くは畿内説と九州説に分かれて大論争を展開しています。それは『魏志倭人伝』にある邪馬台国の位置などについての記述に多くの謎があるからです。ちなみに、邪馬台は一般的には「やまたい」と発音しますが、それは慣用的な読み方で、「やまと」と読むべきだという説があります。
  『魏志倭人伝』の記述の中で、邪馬台国は玄界灘を渡り、対馬、壱岐から末盧(まつろ)国(佐賀県松浦郡)に上陸、東南に五百里で伊都(いと)国(福岡県糸島郡)、さらに東南に百里で奴(な)国(福岡県那珂郡郡)に着くが、その先は「東行、不弥(ふみ)国に至る百里、投馬(つま)国に至る水行二十目、邪馬台国に至る水行十日陸行一月」と書いてあり、不弥国や投馬国をどこに当てはめるかによってまったく違ってきます。
  投馬国について、九州説は鹿児島県や宮崎県、畿内説は山口県や出雲地方などに当てはめていますが、邪馬台国が水行十日陸行一月の記述のとおりなら、はるか南シナ海の海上になってしまいます。九州説は、距離をもっと縮小しなければ合致しないし、畿内説は、そもそもの「東行」を「南」に変換しなければ成り立たない。つまり、九州説は方角は合うが距離が合わないし、畿内説は距離は合うが方角が合わないのです。
  記録にある卑弥呼が貰ったという100枚の銅鏡は、畿内説では「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」だと考えられています。この鏡は円形で鏡の縁の断面が三角で、裏面に神獣の模様が描かれている銅製の鏡のことです。これは畿内に集中して発見されていますし、また、卑弥呼の墓が百数十mもある巨大な古墳であると書いてあることなどから、巨大古墳が集中している畿内説が有力なのですが、三角縁神獣鏡は100枚以上発見されていることや中国では発見されていないことなどから、決定的な証拠としては弱いものがあります。
  また、古墳の分布状態から大和政権への継承、邪馬台国と大和の音韻が似ていることなどから、畿内説が有力だとか、九州にあった邪馬台国などが、東征の結果畿内に至る途中で大和政権ができたという説や、大陸の北部から騎馬民族がやってきて大和政権を樹立した、などという説もあります。『魏志倭人伝』の曖昧な記述に振り回されているのが原因なのですが、日本に記録がないから、この曖昧な中国の文献に頼るしかないのが悲しいですね。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.05.15
第3回 縄文土器と弥生土器/縄文人と弥生人

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縄文土器と弥生土器
  「縄文土器」とは日本人が最初に使うようになった土器ですが、縄をころがしてつけたような文様があることから縄文土器と名付けられたとか、「弥生土器」とは縄文土器の次に出現した土器で、焼き加減も縄文土器に比べて高温で焼いたものであるということなどはよく知られていますが、この名前のくわしい由来などについて知っている人は少ないようです。ちょっとおさらいしてみましょう。

 明治10年(1877)、アメリカのマサチュセッツ州ピポティ科学アカデミーのエドワード・S・モースは、明治政府から招かれて、東京大学で動物学を教えていましたが、大森付近で線路工事の為に露出していた貝の層(大森貝塚)を車窓から発見し、土器や石器を発掘したのが始まりで、この時発見した土器が縄を転がしたような文様があったので、モースは報告書に「縄文土器」と書いたのが始まりです。
  この頃の土器はみんな縄目模様が描かれていると思いがちですが、発見される縄文土器は無紋もしくは単調な線模様が多いのです。縄文文様が付いている方が見栄えも良いし、また「縄文土器」という名称がついているものですから、博物館等でも展示スペースなどの関係もあってでしょうが、縄目模様のある土器が陳列されることの方が多いからなのでしょう。
  縄文土器を使っていた時代は1万年以上前から紀元前3世紀頃までとされていますが、その始まりが年々遡っています。最近、青森県から発掘された土器は、およそ1万5千年前のものと言われていますが、年代の特定が正しければ、世界最古の土器の仲間に入るとして注目されています。
  土器は煮炊きする道具として発明開発されたと思われていますが、それぞれの用途から多種多様な土器が発見されています。縄文時代は1万年以上に亘っていますから、土器の特徴から草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に区分されて、各地でそれぞれの時期に当てはまる代表的な土器の形式を決めています。
  縄文中期(紀元前3000〜紀元前2000)には様々な土器が出現し、形も大きくなり紋様も派手になってきますが、この時期の代表的な土器が「火焔型土器」と呼ばれる、まさに土器が燃えているような形をしたもので、特に信越地方に多い土器です。信濃川流域の笹山遺跡から出土した火焔型土器は日本最古の国宝に指定されていますし、火焔型土器は長野市で行われた冬季オリンピックの聖火台のモデルとなったことなで有名です。
  明治17年(1884)東京の本郷弥生町の向ヶ岡貝塚で一個の壼型土器が発見されました。縄文土器と違って薄くて硬く、文様もなく赤茶けた色をしていたので、蒔田鎗次郎という人によって、土地の名前から「弥生土器」と命名されました。弥生土器は縄文土器に比べて文様も無く非常に質素なもので、特に目立った特徴はありませんが、製造技術が進歩したため、薄手で大きなものも製作できるようになりました。その最たるものが甕棺と呼ばれる棺で、大きな甕に死体を入れて、その上から同じような甕をかぶせて埋葬しました。
  なお、弥生土器が最初に発見された本郷弥生町の遺跡の所在地については明確な記録が残されていません。当時の考古学の技法が未熟だったためなのでしょうが、現在東京大学の敷地の中に石碑がありますし、本郷二丁目の角にも石碑が建立されています。こういった類のものは先に宣言した方が勝ち、というようなケースが多いようですね。
  なお、以前は「縄文式土器」とか「弥生式土器」などのように表現されてきましたが、最近は「式」という文字を使わずに「縄文土器」あるいは「弥生土器」というように表現されている文献が多いようです。

縄文人と弥生人
  縄文時代に住んでいた日本人すなわち縄文人は、木の実を拾い、獣を狩り、非常に過酷な生活をしていたということはよく知られています。また、弥生人は稲作をして米を主食として豊かな生活をするようになったということも歴史教科書で習ってきました。では、実際にどのような生活をしてきたのか、もう一度おさらいしてみましょう。

 「縄文人」とは、およそ1万数千年前から稲作の水耕栽培が始まる紀元前3世紀頃までの時代に、石器と土器を生活用具として、主として狩猟採集生活していた人たちです。縄文時代の大きな特徴は、人々の間に争いがなく、非常に平和に暮らしていたらしいことですが、この時代の平均的な寿命は25歳〜35歳くらいではなかったかと思われています。
  「弥生人」とは、紀元前10〜5世紀ごろから紀元3世紀ごろの巨大古墳が出現するまでの時代(弥生時代)に、青銅器や鉄器と薄手の土器を使用して、稲作の水耕栽培技術を持った人たちです。ここで「水耕栽培」とことわっているのは、縄文時代晩期にはすでに米(陸稲)を食べていた節があるからです。
  全国で発見された貝塚の調査の結果、縄文人はアサリやハマグリ、カキなどの貝類や、アジ、サバ、イワシあるいはマグロやクジラなどの魚類を食べていたようですし、猪や熊、鹿などの動物、カモや白鳥などの鳥類など、私たちが現在食するほとんどの生き物が食料となっていたことがわかっています。
  縄文人は狩猟採集の移動生活だったと教科書には記述されていますが、実際は定住して狩猟採集だけでなく、原始的な農耕栽培がなされていたと思われる痕跡が数多く発見されています。たとえば青森県三内丸山遺跡では大規模な集落跡が発見されており、そこでは栗の生産がなされていたのではないかと思われる痕跡が発見されました。縄文人は木の繊維で作った簡単な衣装を纏っていましたが、ヒスイやメノウあるいは水晶などで作られた勾玉(まがたま)や管玉(くだたま)などの装身具をつけており、けっこうおしゃれであったようですし、また、縄文土器に見られるように、美的感覚も豊かであったようでもあります。三内丸山遺跡では、新潟県の糸魚川でしか採れないヒスイの勾玉などの装身具が大量に発見されており、青森と新潟との間でヒスイと栗などとの交易があったのではないかなどと推測されますし、ナイフや矢じりに使われた黒曜石は、産出場所が限られていますが、全国各地で出土しますから、全国的な規模で交易があったものと思われます。
  昭和23年(1948)、静岡県の登呂遺跡では整然と区画された数十枚の水田跡や住居跡、高床式倉庫跡などが発見され、同時に多数の農具が出土したことによって、弥生時代の村落を解明する最初の貴重な資料となりました。また、北九州の遠賀川遺跡から発掘された前期弥生式土器が、瀬戸内海地方から近畿地方、関東地方にと移動する形で年代別に発見されていますから、稲作水耕栽培の技術が九州から関東に伝わっていったことを証明しているのではないかと思われています。
  この弥生時代には鉄器や青鋼器が出現します。ヨーロッパではかなり早い時期から青銅器や鉄器が使われていましたが、日本では鉄器と青銅器が同時期に現れています。そこから、弥生人は稲作技術を持った渡来人ではなかったかという説もあります。ちなみに、日本ではこのころの遺跡から金製品がほとんど発見されていません。
  稲の水耕栽培によって生活が安定してくると、人口が増加し、社会の構造が変化していく過程において、「卑弥呼」に代表される多種多様な呪術者や指導者が出現し、縄文時代には見られなかった争いが起こるようになったことは想像に難くありません。佐賀県の吉野ヶ里遺跡では、周囲に掘をめぐらせた環濠聚落や、頭部がなかったり、矢じりが突き刺さったりしたままの人骨が多数発見されて、激しい戦乱を物語っています。これも縄文人には見られなかったことで、渡来した新モンゴロイドによるものではないかという説もあります。
  それでは縄文人はどこへ行ったのか。縄文人が自然に変化していったという説もありますが、渡来人と混血して弥生人になったという方が、何となくすっきりと受け容れられます。しかし、縄文人が渡来した弥生人に追い払われたという説も根強くあり、その説によれば北方のアイヌ民族や南方の沖縄人がその子孫だといいます。また極端な説は、南米に渡ったという説があります。その根拠は、エクアドルの遺跡から発掘された縄目模様の陶器があるからだというのです。
  ある研究者によると、縄文人は目が大きく二重まぶたで、唇が大きく、顎が発達しており、福耳で耳垢が湿っていて、全体に汗っかきであり、その反対が弥生人だそうです。ご自分の顔を鏡で眺めて、どちらの系統か考えて見るのもいいでしょう。ただし、スッピンでおねがいします。見栄を張って化粧して眺めるほどの話ではありませんからね。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.04.15
第2回 旧石器時代・新石器時代と青銅器時代・鉄器時代

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旧石器時代・新石器時代と青銅器時代・鉄器時代
 「旧石器時代」や「新石器時代」の言葉は知っていても、専門家でもない限りこの明確な違いを忘れてしまった人が多いようです。なかには、火成岩や水成岩などのように形成過程の違いとか、あるいは人類の出現過程と同様に、ある時期を境に地球の地殻変動などで形成された石だと思っている、とんでもない人もいます。ましてや「青銅器時代」や「鉄器時代」などは日本史には出てきませんから、この四つの時代と「縄文時代」や「弥生時代」などとの区別することができないのがふつうでしょう。
 先史時代区分の一つに、石器時代、青銅器時代、鉄器時代があります。この石器時代は、さらに旧石器時代と新石器時代とに区分されますが、地域によっては石器が多種多様に発展していきますから、この旧石器時代と新石器時代との過渡期を「中石器時代」と呼ぶこともあります。
 「旧石器時代」とは、「打製(だせい)石器」と呼ばれる単に石を割っただけの道具を使っていた時代です。日本では「縄文土器」が現れるおよそ1万数千年前までを旧石器時代と呼んでいます。
 「新石器時代」とは、割った石を磨いて鋭利にした「磨製(ませい)石器」を使う時代を指します。また、この時代には土器の発明や農耕牧畜という要素が加えられています。
 なお、日本では「弥生時代」に青銅器と鉄器とが同時に出現しますから、ヨーロッパのように石器時代、青銅器時代、鉄器時代と明確な時代区分は出来ません。そこで、石器と土器による時代区分がなされて、「旧石器時代」、「縄文時代」、「弥生時代」、「古墳時代」に区分されてきました。

 日本人の祖先はアジア大陸から渡ってきた「モンゴロイド」と呼ばれる人種で、最後の氷河期(およそ7万年前から始まって1万年前に終了)では、海面が現在よりも100メートルくらい低かったから、当時の日本海は大きな湖で大陸とは陸続きだったと考えられているので、古代人たちはシベリアからマンモスを追って、樺太経由でやってきただろうし、また朝鮮半島経由で、あるいは中国南部から当時は陸地だった南シナ海、陸続きだった南西諸島から台湾、沖縄経由で渡ってきた、などと諸説があります。これらが日本人の原型だろうといわれており、混血を繰り返して現在に至っているのでしょう。
 アジアでは50万年前の北京原人が発見されていますが、わが国で最も古い人骨は「明石原人」(ニッポナントロプス・アカシエンシス)です。昭和6年(1931)4月18日に明石市の西ノ木遺跡から発掘されたこの人間の腰骨は、6〜7万年前のものといわれていましたが、残念なことに戦争で焼けてしまい、現在残されている最も古い人骨は、昭和42年(1967)に沖縄県で1万8千年前の地層から発見された「港川人」です。
 日本では縄文土器を使う人類が最初であって、それ以前に人間は住んでいなかったというのが常識でしたが、昭和24年(1949)に群馬県の相沢忠洋氏が数個の打製石器を発見したことから、縄文時代以前の日本人の存在が証明されるようになりました。また、長野県の野尻湖では3〜5万年前の動物の骨で作った道具が発見されていますし、宮城県では11万年前の地層から石器と共に火を焚いたと思われる痕跡が認められています。現在続々と各地で縄文時代以前の人類の痕跡が発見されています。
 しかし、多くの旧石器時代とされている遺跡が平成12年(2000)の「ねつ造事件」で大騒ぎになりました。この事件は、東北のある「石器探し」の人物によって次々と発掘(※1)した旧石器時代の遺物や遺跡が全てねつ造だったという事件で、本業の学者までこの人物を「神の手を持つ人」などと崇拝していた節もあり、日本の旧石器研究の未熟さを露呈した事件でもありました。テレビや新聞などのマスコミ各社は、この人を英雄の様にまつり上げ、大げさに報道しましたが、ねつ造が発覚してからは、あたかもその報復であるかのように批判攻撃しました。
 この事件の影響は非常に大きく、ねつ造を疑われた九州のある学者が抗議の自殺をしました。また、諸外国からの信用を落とし日本の名誉が傷つけられました。日本の古代文化は中国や朝鮮半島から伝わったと主張して、何事も日本に負けまいとする中国、韓国、北朝鮮では、「いつも日本はこうして歴史を捻じ曲げているが、その確かな証拠が露見した」と大喜びをしました。そんなに喜ぶのなら、このねつ造者に感謝状の一枚でもやったらどうだろうかと思うのですが、どの国からも何かプレゼントされたという話は伝わってきていません。
 ところで、日本人の祖先であるモンゴロイドは、ベーリング海峡を渡って北米から南米へ移動し、先住民族を追い払ってチリの先端まで行った痕跡があるという説を発表した学者がいます。つい最近まで先住民族の末裔らしい人がチリの先端に住んでいたといいますから、まんざら架空の物語ではないのかも知れません。私たちは偉大な旅人の子孫です。だから、旅行が好きで、外国のどこへ行っても日本人旅行客をみかけるわけでしょう。

(※1)発掘調査
 私が考古学に興味を持ち、発掘調査に参加していた半世紀くらい前とは、作業がかなり変わってきました。その当時は、国土地理院の決めた緯度・経度・標高を示す三角点や水準点から、ポールや巻き尺を使って発掘現場の位置や標高を割り出したものでした。多くの場合三角点は山の上にあって、岩や木の枝などに皮膚を傷つけられながら何時間もかかって現場まで測量して来たものですが、今は衛星を使って簡単に標高や地点が割り出されます。
 また、地中深く眠っている遺跡では、スコップを使って掘った土をリレー方式で遠くに運んだものでしたが、現在ではベルトコンベヤーや小型ブルドーザーが導入されていますから、掘った土を地上に放り投げると力の弱い人は投げた土砂が自分の顔に降ってくるような、そういった力仕事は少なくなくなりましたので、体力的にも非常に楽になりました。むかしは考古学者は体力勝負でしたが、現在は受験勉強やらパソコンおたくなどで、体力がない青瓢箪のような青年も考古学に打ち込むことが出来る世の中になりました。
 遺跡全体の写真撮影は、高い櫓を組んで「はしご乗り」のようなアクロバット撮影をしたり、凧を揚げて撮ったりしたものでしたが、今はラジコンのヘリコプターを使ったりしますから、危険も少なくなりました。他にも、稲科特有の超微細なガラス質は電子顕微鏡を使って調べ、その遺跡での稲作のはじまりがわかりますし、出土品の炭化物から時代を測定する「放射性炭素による年代測定法」や、樹木の年輪から時代や気侯などを分析、また土壌の火山灰の分析法や、花粉などから特定する方法、あるいは古代の地震から年代や地層の変化を分析するなど、高度な分析ができるようになりました。
 古墳の発掘調査では、小さな穴から医療用のファイバー・スコープによって古墳内部を覗いたり撮影したりすることが出来るようになって、空中の雑菌や埃などによる汚染が最小限にくい止めることが出来ます。以前のように、石室内に巣を作っていたヘビが、石をどかせたら怒って飛び出してきて、驚かされるようなこともなくなりました。
 最近見学に行った遺跡では、麦わら帽子に手ぬぐいで頬被りしたおばさんたちが、手にした園芸用のスコップで土をはぎ取っていました。一見すると畑で農作業をしているような格好ですが、今では暇と実益とを兼ねた主婦の立派な職業となっているのです。ほとんどの人は、この作業のベテランになっていると言いますが、その中の一人が、この遺跡や考古学そのものまで丁寧に説明をしてくれました。
 説明がなかなか堂に入っていたものだったから、きっとこの人は広報係の先生なのだろうと思っていましたが、後で現場責任者に聞いてみたら、彼は苦笑いして、「いいえ、どこにも必ずいる世話好きなオバさんの一人ですよ。まあ、門前のオバさん習わぬ考吉学を語る、ですね」と言いました。発掘器財だけでなく、現場の主役も変わってきたようです。

(篠井純四郎)

 
連載コラム・篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」目次
2012.03.26
第1回 猿人・原人と旧人・新人

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ごあいさつ
 今回から「雲竹斎先生の歴史文化講座」にかわって急遽登板することになりました。雲竹斎先生が急に降板された理由は知りませんが、一説にはイスラム過激派を刺激して生命の危険を感じて雲隠れしたとか、「中東・アラブ社会」が先生のご専門であるだけに、難しい話になって理解し難いものになってしまったから、あるいは「雲竹斎」という名前が「蘊蓄」という意味ではなく尾籠な話の「ウンチ・くさい」などと、ふざけた名前なのではないか、と読者からクレームがついたからだ、等々諸説があります。たしかに、話の中には鼻をつまみたくなるようなものもありましたが、先般亡くなられた落語家の立川談志師匠は、たしか「雲国斎」と名乗っていたように記憶しています。雲国斎の「国」は「告」だったか「酷」だったのか記憶が定かではありませんが、それに比べれば「ウンチ」は、いわば幼児ことばで、可愛いいではありませんか。
  余談はさておいて、北アフリカの地中海沿岸のあるカフェで隣の席に座った老夫婦は、商用で日本に滞在したことがあるというフランス人観光客でした。ちょうど三月だったので、話題がひな祭りのことになったのですが、老夫婦が言う「ウーコンノサークラ」という言葉の意味がわからなくて戸惑ったものです。たぶん「鬱金桜」のことだと思いましたが、よく聞いてみると、ひな壇に飾られている「右近の橘と左近の桜」のことだったのです。そこで、「右近は桜ではなく橘だ」と説明しますと、日本滞在中知り合いになった家で、「右近の桜」だと教えられたと言うのです。
  私たちは、古い時代の話や昔からのしきたりなど、学校で習ったり本で読んだりしていても、いつともなく忘れてしまい、知っているようでいざとなれば自信が持てないことが多いものですが、日常生活に重大な影響をもたらすような事柄でないかぎり、しっかり覚えておく必要がないのは当然のことです。しかし、知らないより知っていた方が良いでしょう。ましてや外国人には日本の歴史や文化は正しく伝えなくてはいけません。
  そこで、友人知人を相手に片っ端から思いつく限りの古い時代の話を持ち出して、どんな話が忘れられてしまったか、あるいは記憶が曖昧になってしまったのかを聞いてみました。みんなから迷惑がられてたいへん嫌われましたが、思ったとおり記憶に曖昧な話がたくさん出てきました。なかには決定的な間違いをしている話も少なくありませんでしたので、思惑どおりになって私は満足したものです。これらの中のいくつかをまとめてみました。なお、同じ歴史文化の話ですから「雲竹斎先生」の書かれた話と重複するものや一部引用させていただいたところもあります。
  また、人により地域により、古い時代の話にはいろいろな言い伝えや解釈などがあるだろうことは当然です。以前にも自分自身の体験談を出版したことがありましたが、ご親切にも「自分はこう思う」とか、あるいは「おまえのいっていることは間違いだ」などと訂正を求めてきたり、抗議の内容の電話やお手紙をいただき、大変驚いたものです。あの本は、長期にわたる外国生活での自分自身の体験談であり、かつまた、あくまでも私の考えであるとお断りしていたのですが、世の中には「ご親切な」方が大勢いらっしゃるものだと痛感しました。なるほど、これではテレビドラマなどで「登場する人物や団体は架空ものです」と見え透いた断りを入れるのも頷けたものでした。
  今回の話の内容にも私の独断と偏見がかなりあることは承知の上です。鼻をつまみたくなるだけでなく、目を覆い、耳をふさぎ、眉に唾をつけたくなるような話もあるかも知れませんが、そういうわけでこのたびは、ご批判、ご批評などは、ぐっとこらえていただくようお願い申し上げます。学問として読むものではなく「うんちく」といった意味で軽く読んでいただければ幸いです。この場合はウンチとクに分けないでお読みください。そういうわけで、いわばあなたの「脳細胞の御膳」に「古い歴史や常識の食材」を調理して並べてみたわけですが、脳細胞が消化して脳の活性化に役立てていただければ幸いです。くれぐれも消化不良を起こさないように願っております。

猿人・原人と旧人・新人
  人間の祖先については、「ネアンデルタール人」とか「北京原人」などという言葉が教科書にも記載されていますから、一応は学校で学んだものですが、覚えている人は少ないようです。「人類は猿から進化した」と言ったのはダーウインでしたが、では「猿と人間の違いは何か」ということになるとわからない。たまに書籍などで「猿人」や「原人」という言葉が出てくると、猿人と類人猿とは同じなのか、はてまた「原人」という言葉とどう違うのか、よくわからない人が一般的でしょう。
  学問上、古代における人間と猿とは常時二足歩行するかどうかで分かれますが、人類の進化の過程は猿人、原人、旧人、新人と分類されています。「猿人」とは、およそ400万年前から200万年前に生息していたとみられる人類最初の祖先で、「原人」とは、次に出現した人類です。猿人に比べて脳の容積も大きくなり、火を使うなど進化した人類です。「旧人」とは、およそ数万年前まで生息していたと思われている人類で、「新人」とは現代人の祖先です。したがって、先輩社員が新入社員を「こんど入社した新人の‥‥」などと言うのは、「新人」が「新人の‥‥」と言っているようで、考えてみればなんとも奇妙な話です。

  1992年、エチオピアで発見された人骨化石は、顔や体型はチンパンジーに似てはいましたが、440万年前には直立して歩いていたと思われています。その後、アフリカ各地で同時代の人類の痕跡が多数発見されて、総称して「猿人」(アウストラロビテクス)と呼んでいます。
  1974年、エチオピアで発見された若い女性の全身骨格の4割にあたる人骨化石は、アファール猿人(370万年前〜270万年前)と呼ばれますが、この女性は「ルーシー」と命名され、「人類の母」ともいわれています。このルーシーという名前は、発見者ジョハンソン氏のグループが復元作業中に聞いていたビートルズの「ルーシー・インザ・スカイ・ウイズ・ダイアモンズ」という歌の名前からつけたという、なんとも肩すかしを食らったようなつまらない話です。その後、2000年に3歳の女児のアファール猿人の人骨化石が完全な形で発見されました。
  1891年、ジャワで発見された人骨化石(ピテカントロプス・エレクトス=ジャワ原人)は、今から150万年前に生息し、猿人より人に近かったので、学問上「原人」(ホモ・エレクトス)と呼びますが、1980年、ケニアで発見された骨の化石も、180万年前に生息していた原人の骨だといわれています。北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)もこの時代です。
  1856年、ドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル渓谷から発見された人骨は、20万年前のものと見られています。有名なネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)ですが、この年代前後の人骨化石が続々と発見されて、これらを「旧人」と呼んでいます。
  1868年、フランスのドルドーニュにあるクロマニヨン洞窟で、4万年前の人骨の化石が発見されました。これが、新人(ホモ・サピェンス)と呼ばれる現代人の祖先です。
  1987年にハワイ大学のR・キャン氏が、多数の人骨からミトコンドリアDNAを採取して調べた緒果、アフリカで発見された20万年前のひとりの女性に行き着いたといいます。この人骨を、恐れ多くも『旧約聖書』に出てくる最初の女性の名前をとって、「イブ」と名づけています。なお、この方法で調べたところ、日本人の中には欧米人にはないアルコールがまったく受け付けない人がいますが、先祖は中国東北部のあるひとりの女性だったという説があります。
  人類は東アフリカの大地溝帯で発生して、メソポタミアから東西に分かれて進出していき、環境に順応し、メラニン色素の量などの減少などによって、白人や黄色人が出現したといわれています。「人間は猿から進化した」と発表したのはダーウインですが、ユダヤ教やキリスト教では神がアダムとイブを造ったという『旧約聖書』の記述を固く信じている人も多くおりますから、キリスト教徒の多い欧米では学校で進化論を教えていても、その矛盾に悩んでいるのは皮肉です。『日本神話』にも似た話がありますが、最近の日本人は宗教には無関心の人も多いようですから、その点は欧米人より問題が少ないようです。喜んでいいのか悪いのかわかりませんが。
  しかし、現在の学説はだんだんと猿説に近づいています。しかも、そのルーツは黒人だそうです。遺伝子は黒人の方が優性だから、近い将来人類すべてが黒人に帰っていくことでしょう。色が浅黒いといって悩んでいる人は、もしかすると誰よりも進化した「未来から来た人」かもしれないのですから、胸を張って歩きましょう。もっとも、下を向いて肩を落として歩けば、猿人や原人が進化しないでそのまま現れた、と誤解されるかもしれません。

(篠井純四郎)

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