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雲竹斎先生の歴史文化講座

第64回「中東・アラブ社会 (12)」_2012.02.11

肥沃の三日月地帯(歴史1)

 中東における人類の生活の歴史は非常に古く、ガリラヤ湖の南にある旧石器時代の遺跡はおよそ90万年から70万年前のもと言われている。また、シリア北部のユーフラテス川流域においても、紀元前7000年頃の原始農村の跡が日本の考古学調査隊によって発見されているし、イスラエルのエリコの遺跡でも同時代の村落があったことがわかっている。
 紀元前数千年の頃、トルコに源を発したチグリス川とユーフラテス川とに挟まれた一帯に、世界で最初に農業、牧畜による生産を開始し、高度な文明が築かれていった。現在のイラン・イラク南部で、これをメソポタミア文明といい、シュメール人という人種により世界最初の都市国家が形成され、豊かな大地の恵みを受けて麦を栽培しパンを焼きビールを醸造して、高度な文化を育んでいった。彼らは、税の徴収や穀物取引などの経済活動の記録をするため、「楔形文字」を発明して、粘土で造られた板に記録をしていたが、その記録によるとチグリス・ユーフラテス川から、この地に張り巡らせた運河によって潅漑農業が発達し、大麦の収穫量は蒔いた種の70?80倍だった。また彼らが醸造し愛飲していたビールも、30種類以上の銘柄もあったというから、シュメール人の文明は非常に高度だったと推測される。このメソポタミアからパレスチナ(イスラエル、ヨルダン)、シリア一帯は「肥沃な三日月地帯」と呼ばれて文明が発展していった地域でもあった。この高度な文明を築いたシュメール人はどこからやって来たのか不明だが、その後アラビア半島はアフリカ大陸やアジアからの民族大移動の十字路となっていったのである。
 ここは、『旧約聖書』の舞台となったところで、アブラハムが神の祝福を受け、ヤコブが神と闘って勝ちイスラエルと改名した地である。そして、エジプトからモーセがヘブライの民を率いてやってきて、神ヤハウェと契約したのもこの地だった。また、イエスが洗礼を受けて布教活動し、ゴルゴダの丘で十字架に懸けられて、その恨みからローマ帝国によってユダヤ人が追い出されたのもこの地である。さらに、ムハンマドが出てイスラム教を興し、巨大な帝国を建設して首都をおいたのもこの地だった。その結果、現在は混乱の坩堝と化してしまったのである。紀元前3500年頃、言語学的に「セム語族」と呼ばれる人種が、メソポタミアを中心にして、この肥沃な三日月地帯に移動してきた。これが「第一次セム語族の大移動」と言われ、第2回目は紀元前2500年頃、第3回目は紀元前1500年頃、第4回目は紀元前500年頃と、都合4回にわたって大移民団がやってきたという学説がある。この学説によると、最初に文明を築いたシュメール人による都市国家は、メソポタミアの北部に移住してきたアッカド人にとって代られ、第二次セム語族の大移動でやってきたアッシリア人やバビロニア人などが次々と国家を統一し、この肥沃な三日月地帯もエジプトを含めて覇権争いの戦場となっていったという。

 このアッカド王国を滅ぼし、バビロンを首都としたバビロニア帝国第6代のハンムラビ王は、「目には目を、歯には歯を」という刑罰で有名な『ハンムラビ法典』を制定し、果敢に遠征を繰り返して領土を拡大しただけでなく、運河の開通や潅漑の整備などで農業を振興させて、この地をオリエント第一の穀倉地帯にしていった。そして、現在のトルコ地方に展開していたヒッタイトは、鉄製武器と戦闘馬車による新戦術でこの地方を蹂躙した。紀元前1285年頃の現シリアのカデシュでラムセス二世(エジプト第19王朝)の戦車兵団を壊滅させたのは歴史上有名である。また、同じ第二次セム語族の大移動で、カナン人とよばれる民族はシリア西部からヨルダンにかけた地中海沿岸地方に移住して、商業的な都市や港湾型都市を建設していったが、このカナン人が、後にギリシャ人によってフェニキア人と呼ばれた人種である。この民族が発明した文字がフェニキア文字といって、現代のアルファベットの基になったといわれているが、彼らの商業民族という性格から航海術が発達しており、独自の文字の開発・発明が必要不可欠だったと思われる。この航海の上手な商業民族は、東西の交易によってメソポタミア、エジプト、エーゲ文明を融合していったのだが、地中海の至る所に植民地を持ち、例えばチュニジアのカルタゴなどはフェニキアの植民地として建設されて、次第に強国となってローマと覇権を争った。この戦いが有名なポエニ戦争である。彼らの交易品は、貴金属を始めとする装飾品や衣料、食品、家具調度品から武器に至るまで有りとあらゆるものだったが、特にこの地方からの産物としてはブドウ酒、オリーブ油、ガラス製品などの他、レバノン山脈から伐採されたレバノン杉は、樹木の少ないメソポタミアやエジプトでの必需品だったし、悪鬼貝の一種から採れる染料は「フェニキア紫」と言って珍重されて、西洋では無くてはならないものだった。


≪閑話≫外観ではわからない(カスバ)

 友人のなかには「カスバの女ってぇ唄があるじゃぁないか。カスバって風俗店か?」と言ったものがいる。かなり以前だが、『カスバの女』という演歌が流行した時代があった。そこからハーレムとかベリーダンスなどのイメージと重なって、歓楽街だと想像するのかもしれない。カスバは中世から人々が生活している旧市街のことである。そういうと、友人たちは一様に興醒めしたような顔をするが、カスバは場所によってはメディナとも呼ばれている。メディナという地区とカスバという地区が一緒になっている町もある。このカスバとメディナの違いは、地方の役所や公共機関などを有する中心都市を「カスバ」といい、地方の中小都市を「メディナ」と呼んだ時期があったが、近世では呼び方に区別がなくなり、今では混然としている。そこから、カスバは要塞でメディナは一般庶民の住宅街だという人もいる。
 ちなみに、こういった中世からの街には必ず設置される五つの施設がある。モスク、学校、隊商宿、市(市場)、銭湯の五つだが、大きな町では街区ごとに、この五つの施設が設置されている。現在では、生活上の便利さもあって、平坦な場所に広い道路と大きなビルが建つ新しい街が形成されているが、旧市街に住む人々は古い街並みに大きな誇りを持っている。
 このような昔からの街は、中世のヨーロッパの都市と同じで、街全体が高い城壁に囲まれている。だから城塞都市であったことは間違いない。街の中は道路が狭いうえに曲がりくねっていて、家畜や人間が通るのがやっとである。この道路に面した家の壁は日干し煉瓦を積んでその上から泥を塗っただけの、しかも窓がほとんどないお粗末なもので、壁が非常に分厚い。どの家も外側から見れば区別がつかない。それは、敵が侵入してきても迷ってしまうように、わざと外観を同じような造りにしているのだが、道路が狭くて窓がなく壁が分厚い作りなのは直射日光を防ぐ目的もある。しかし、外観はお粗末だが、内に入るとそこは別天地の様相を呈している。家が「回」の字型をしていて、真ん中にタイル張りの中庭があり、中庭に向いて数多くの部屋がある。中庭には噴水がある豪華な家もある。このような家の造りはメソポタミア文明発祥のころと変わっていないという。街の中は、狭い道を行き交う人々の喧噪や体臭、それに立ちのぼる埃と共に、家畜の匂いや炊事の煙で一種異様な雰囲気を醸し出している。ここら辺まで話を進めてくると、友人たちはエキゾチックなロマンを求めて行ってみたいとか、そんな汚いところへ行きたくないとか、がやがや騒がしくなり、話をする雲竹斎の忍耐にも限界が来るのだ。

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2008.10.21
10月は収穫の月

第1回「10月は収穫の月」_2008.10.21

 10月は神無月(かんなづき)とも言うが、この語源にはいろいろな説がある。

 一般的に言い伝えられているのは、日本国中の八百万(やおよろず)の神がみんな出雲の国に行ってしまい、留守にするからだと言われている。そこで出雲の国だけはこの月を神有月(かみありづき)と呼ぶ。なぜ出雲の国に集まるかと言えば、それぞれの国における男女の縁談について、国神たちが出雲大社にて協議し定めるからだと言い伝えられている。旧暦の10月は、農村では収穫が済んで農作業も一段落し、結婚ラッシュとなるから神さまたちも大忙しで、だから出雲大社に出向いて情報交換や取引などをするのかもしれないが、この月は収穫を祝い神に感謝する月だから、神様が不在では困る。そこで、神さまは月の初めの一週間だけ出かけているのだそうである。神様の世界もご苦労なことだ。  

 また、「かんなづき」の語源は、神様ではなく雷だという説もある。その説によると、6月は水無月(みなづき)というが、雷が鳴り始める季節だから雷鳴月(かみなりづき)だという。これに対して10月は雷があまりないから雷無月(かみなしづき)と言ったことから、「かみなづき」になったという説である。さらに、醸成月(かもしなりづき)が「かみなしづき」になった、という説もある。これは、10月に行われる神嘗祭に供する新酒を造る、すなわち新米で酒を醸すことからきたのだという。神嘗祭とは、その年に収穫した新米を神様に捧げて感謝する行事だが、たとえば伊勢神宮では10月15日から25日にかけて行われるもっとも重要な神事である。

 この翌月、11月23日は、宮中で天皇陛下が新穀を神に捧げて感謝する新嘗祭(にいなめさい)が行われる。戦前は、国家の最高責任者である天皇が国民を代表して行う神事だったから祝日となっていたが、敗戦と同時に皇室中心の政治から民衆の政治へと変貌するにあたって、今日では「勤労感謝の日」というもっともらしい名称を付けて休日にしている。勤労とは、辞書によると「心身を労して仕事に励むこと」とある。ふだん勤労しない者は休日の権利がないのは言うまでもない。

 このように、10月は収穫の月だったから、各地の神社仏閣で収穫祭が行われた。恵比寿講もそのひとつである。これは、江戸時代における民間年中行事の一つで、毎年10月20日に各商家が蛭子(えびす)の像を祀り、商売繁盛を祈願して宴を開いた行事である。そもそも蛭子は、七福神の恵比寿様のことだが、この神さまは農村では田の神であり、漁村では漁の神だし、商家では商売繁盛の神さまとして祀られていたから、これら信者の集まりを恵比寿講、この祭りを恵比寿祭と言う。恵比寿様は、春を迎えると山を下って里にやってきて、収穫が終わるとまた山に帰ると言われているから、旧暦の1月と10月に恵比寿講(祭り)が行われるようになった。恵比寿様は水蛭子(蛭子神)だといわれている。『古事記』によれば、高天原(たかまがはら)の神々が、男神・イザナキノミコト(伊耶那岐命、日本書紀では伊弉諾尊)と女神・イザナミノミコト(伊耶那美命、日本書紀では伊弉美尊)を下界に使わされて、日本列島を造ったという。最初に生まれたのが淡路島で、次に四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬、佐渡、最後に本州が造られた。最初に、イザナミがイザナキに向かって、「なんといい男なンだろう」と言い、その後でイザナキがイザナミに「なんといい女なンだろう」と言ってから契ったので、出来た子供(島)は不具で、次の子供も満足な島にならなかったという。そして、立場を逆にして、男であるイザナキから先に言葉を発したらいい島ができた。このことから、女性から先にプロポーズをするものじゃあないとか、何事も男性が優先なのだ、と言い張る素直な人もいる。断わっておくが私が言ったのではない。この最初の子が水蛭子で、ちなみに第2子は淡島神だが、水蛭子は葦の舟に乗せられて流されたという。こういった話は世界中にあって、有名なのは『旧約聖書』にでてくる「モーセの誕生」も同じように葦の舟に乗せられてナイル川に流された。なお、モーセはエジプトからユダ(ヤ)族などヘブライ12部族を連れて、神から約束された「カナンの地」(現イスラエル)を見下ろせる「モアブの丘」(現ヨルダン)で120歳の生涯を閉じるが、モーセは天空を駆ける舟に乗って日本に来て、583歳で亡くなったという説がある。石川県押水町にある宝達山の三つ子塚古墳がモーセの墓だといわれているが、これが神話に出てくる神々が住む「高天原」の外国説の根拠になっている。

 話はどんどん脱線していくから、この辺で今回の講義を終了する。
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