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篠井純四郎の「間違えやすい日本の古い時代の話」

第24回「定火消と町火消/旗本奴と町奴」_2014.07.01

定火消と町火消

 江戸の火災に対して、大岡越前守忠相が町民に「町火消」と呼ばれる自衛消防団を組織させたことで有名ですが、「定火消」などと混同しがちです。ほかにも江戸城を守るための「大名火消」があり、町火消と共に三つの消防組織によって江戸は護られていました。

  慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開き、急速に町作りが始まったのですが、江戸城入城当時は荒れ果てた山村だった江戸の人口は、享保年間(1700年代前半頃)には140万人に達していました。当時、ロンドンの人口は80万人、パリは55万人でしたから、世界一の大都市でした。そこで、三代将軍家光は、寛永6年(1629)に「奉書火消」の制度をつくり、火災が発生すると幕府からの指令(奉書)によって、大名を招集して消火に当たらせましたが、寛永20年(1643)、16の大名家を指名して「大名火消」と呼ぶ消防組織をつくらせました。石高(こくだか:禄高)に応じて人足を出さして、江戸城や大名家など武家屋敷の消火に当たらせました。
慶安3年(1650)四代将軍家綱は、4000石以上の高級旗本4人に命じて定火消という消防組織をつくり、飯田橋、市ヶ谷、お茶の水、麹町の屋敷に常時役人や火消人足を詰めさせて、火事が起きたらすぐ出動できるようにしました。宝永元年(1704)には定火消が10組になって、「十人火消」とか「十人屋敷」とか呼ばれました。この消火に当たる人足を「臥煙(がえん)」と呼び、常時火消屋敷に寝泊まりさせていましたが、寝るときは一列に並んで一本の丸太を枕にして、火事の際には寝ずの番が枕の端を木槌で叩くとその衝撃で全員が飛び起きるという仕組で、これが「たたき起こす」の語源になりました。
江戸は人口が急速に増えたため、人口密度は非常に高くなり、木造家屋が密集していたので火災が多発しました。明暦3年(1657)に起きた「明暦の大火」では、江戸の大半が焼失して死者も10万人を超え、江戸城も焼失し、その後江戸城の天守閣は再建されませんでした。

享保3年(1718)町奉行大岡忠相がこれまでの火消し組合を再編成して、「いろは四十八組」のほかに、本所深川の16組を合わせて64組の町火消ができました。なお、明暦の大火が「振り袖火事」と呼ばれた理由は、ある娘が本郷の本妙寺で見染めた寺小姓に恋煩いして亡くなってので、着ていた振袖を本妙寺で供養してもらった際に、火中に投じた振袖が突風で空中に舞い、それが原因で大火になったという怨念話がよく知られています。しかし、急速に発展した江戸の都市改造のために、幕府が放火したとか、火元が幕府の重要な人物の屋敷だったから、これを秘匿するために本妙寺が火元を引き受けたなどの説もあります。真相はどうあれ、恋煩いの怨念話の方がいつの世にも最も日本人に好まれるのです。


旗本奴(はたもとやっこ)と町奴(まちやっこ)

 大名行列などの絵巻に槍を持ったり駕籠を担いだりする足軽以下の使用人は、一様に短い半纏を羽織っていますが、これらを「奴」といって凧の絵柄にもなっていますから、「旗本奴」や「町奴」などと混同しがちです。旗本奴は、江戸時代初期、派手な身なりをして徒党を組み、町民たちに乱暴をはたらいた旗本や御家人です。また町奴は、旗本奴に対抗した町民で、派手な格好と売られた喧嘩は必ず買うといった無頼の連中でしたが、町民たちには人気がありました。

 もともと奴は「家っ子」からきており、ここから下っ端の、あるいは半端な人間を指す言葉になったといいます。旗本奴や町奴は、派手な衣装を纏い派手な行動をしていましたが、これは戦国時代の風潮で「かぶく」といい、これらの者を「かぶき者」と称しました。戦国時代から江戸時代初期のころにかけて多かったようですが、これが歌舞伎の源流だという説もあります。豊臣秀吉の小田原攻めに遅れた伊達政宗は、秀吉の派手好みを知っていましたから、全軍に白装束を着せて街を練り歩き、秀吉から「かぶき者」と称されて許されたという話もあります。また、朝鮮出兵の際にも派手な軍装だったため、ここから「伊達男」の言葉が生まれました。
旗本奴で有名な水野十郎左衛門(みずのじゅうろうざえもん)は、福山藩主水野勝成の孫に当たる3000石の大身旗本でしたが、暇な身分から、大小神祇組(だいしょうじんぎぐみ)という組織の首領となって、揃いの服装で町を練り歩き、町民に乱暴を働きました。町奴の代表格には幡随院長兵衛がいました。幡随院長兵衛(ばんずいんのちょうべえ)は、佐賀藩士塚本伊織の子で、今でいう職業斡旋所ともいうべき「口入れ屋(就職あっせん所)」を営んでいましたが、乱暴を働く旗本奴と対立して町奴の頭領となりました。この対立で多くの町民たちが旗本奴からの被害を免れたといいますが、逆に迷惑を被った人たちも多かったようです。
明暦3年(1657)7月18、水野十郎左衛門は、仲直りを理由に幡随院長兵衛を呼び出して、風呂場で斬り殺しました。水野十郎左衛門は「無礼討ち」であるとの理由で罪にはならなかったのですが、7年後の寛文4年(1664)、幕府の評定所から、「ふだんの行いがよろしからず」として切腹を申し渡され、家名断絶(家禄没収、家族追放)してしまいました。
 ところで、日本三大仇討ちのひとつとして有名な「荒木又右衛門の伊賀越え決闘鍵屋の辻」事件は、寛永7年(1630)、岡山藩主池田忠雄の小姓渡辺源太夫が、同藩の藩士河合又五郎に殺されるという事件が起き、この又五郎が旗本安藤次右衛門正珍にかくまわれたことが発端でしたが、河合又五郎の引き渡しを求める池田家と、拒む旗本との対立が熾烈を極めました。
当時激しかった外様大名と旗本の確執は、その原因のひとつに外様大名の禄高が譜代大名や旗本の禄高に比べて非常に高いことがありました。水野十郎左衛門などが旗本奴として乱暴をはたらいたのは、それら鬱積した不満がその背景にあったと思われます。旗本たちの親分格の大久保彦左衛門が、「天下のご意見番」としてさまざまな活躍をしたという逸話は有名ですが、この大久保彦左衛門が書いた『三河物語』にも、功績のあった旗本たちより外様大名の方が給料が高いという不満が書かれています。

余談ですが、この『三河物語』には、旗本たちが徳川家のために命がけで戦った様子もいろいろ書かれていますが、大坂夏の陣では真田幸村に家康の本陣が突き崩れされた際に、踏みとどまったのは彦左衛門だけだったなどと、ちゃっかりと宣伝しているところもあります。また、沼津城主の次兄に後継者がいなかったので、末弟の彦左衛門に継がせようとしましたが、「自分の功績ではないから」と断ったため、沼津二万石は改易となった事件とか、小田原城主だった長兄が失脚した際に、3000石の旗本の地位を返上して抗議したことでも有名な人です。これらはあくまでも逸話ですが、悪いことをしても給料を返上するなどの偉い人はいないどころか、子会社や関連団体に天下りしてしらばっくれている人が多いのが現在です。

(篠井純四郎)

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24
2014.07.01
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旧石器時代・新石器時代と
青銅器時代・鉄器時代
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2012.03.26
猿人・原人と旧人・新人

第1回「猿人・原人と旧人・新人」_2012.03.26

ごあいさつ

 今回から「雲竹斎先生の歴史文化講座」にかわって急遽登板することになりました。雲竹斎先生が急に降板された理由は知りませんが、一説にはイスラム過激派を刺激して生命の危険を感じて雲隠れしたとか、「中東・アラブ社会」が先生のご専門であるだけに、難しい話になって理解し難いものになってしまったから、あるいは「雲竹斎」という名前が「蘊蓄」という意味ではなく尾籠な話の「ウンチ・くさい」などと、ふざけた名前なのではないか、と読者からクレームがついたからだ、等々諸説があります。たしかに、話の中には鼻をつまみたくなるようなものもありましたが、先般亡くなられた落語家の立川談志師匠は、たしか「雲国斎」と名乗っていたように記憶しています。雲国斎の「国」は「告」だったか「酷」だったのか記憶が定かではありませんが、それに比べれば「ウンチ」は、いわば幼児ことばで、可愛いいではありませんか。     
 余談はさておいて、北アフリカの地中海沿岸のあるカフェで隣の席に座った老夫婦は、商用で日本に滞在したことがあるというフランス人観光客でした。ちょうど三月だったので、話題がひな祭りのことになったのですが、老夫婦が言う「ウーコンノサークラ」という言葉の意味がわからなくて戸惑ったものです。たぶん「鬱金桜」のことだと思いましたが、よく聞いてみると、ひな壇に飾られている「右近の橘と左近の桜」のことだったのです。そこで、「右近は桜ではなく橘だ」と説明しますと、日本滞在中知り合いになった家で、「右近の桜」だと教えられたと言うのです。
私たちは、古い時代の話や昔からのしきたりなど、学校で習ったり本で読んだりしていても、いつともなく忘れてしまい、知っているようでいざとなれば自信が持てないことが多いものですが、日常生活に重大な影響をもたらすような事柄でないかぎり、しっかり覚えておく必要がないのは当然のことです。しかし、知らないより知っていた方が良いでしょう。ましてや外国人には日本の歴史や文化は正しく伝えなくてはいけません。
 ちなみに、こういった中世からの街には必ず設置される五つの施設がある。モスク、学校、隊商宿、市(市場)、銭湯の五つだが、大きな町では街区ごとに、この五つの施設が設置されている。現在では、生活上の便利さもあって、平坦な場所に広い道路と大きなビルが建つ新しい街が形成されているが、旧市街に住む人々は古い街並みに大きな誇りを持っている。
そこで、友人知人を相手に片っ端から思いつく限りの古い時代の話を持ち出して、どんな話が忘れられてしまったか、あるいは記憶が曖昧になってしまったのかを聞いてみました。みんなから迷惑がられてたいへん嫌われましたが、思ったとおり記憶に曖昧な話がたくさん出てきました。なかには決定的な間違いをしている話も少なくありませんでしたので、思惑どおりになって私は満足したものです。これらの中のいくつかをまとめてみました。なお、同じ歴史文化の話ですから「雲竹斎先生」の書かれた話と重複するものや一部引用させていただいたところもあります。
 また、人により地域により、古い時代の話にはいろいろな言い伝えや解釈などがあるだろうことは当然です。以前にも自分自身の体験談を出版したことがありましたが、ご親切にも「自分はこう思う」とか、あるいは「おまえのいっていることは間違いだ」などと訂正を求めてきたり、抗議の内容の電話やお手紙をいただき、大変驚いたものです。あの本は、長期にわたる外国生活での自分自身の体験談であり、かつまた、あくまでも私の考えであるとお断りしていたのですが、世の中には「ご親切な」方が大勢いらっしゃるものだと痛感しました。なるほど、これではテレビドラマなどで「登場する人物や団体は架空ものです」と見え透いた断りを入れるのも頷けたものでした。

今回の話の内容にも私の独断と偏見がかなりあることは承知の上です。鼻をつまみたくなるだけでなく、目を覆い、耳をふさぎ、眉に唾をつけたくなるような話もあるかも知れませんが、そういうわけでこのたびは、ご批判、ご批評などは、ぐっとこらえていただくようお願い申し上げます。学問として読むものではなく「うんちく」といった意味で軽く読んでいただければ幸いです。この場合はウンチとクに分けないでお読みください。そういうわけで、いわばあなたの「脳細胞の御膳」に「古い歴史や常識の食材」を調理して並べてみたわけですが、脳細胞が消化して脳の活性化に役立てていただければ幸いです。くれぐれも消化不良を起こさないように願っております。


猿人・原人と旧人・新人

 人間の祖先については、「ネアンデルタール人」とか「北京原人」などという言葉が教科書にも記載されていますから、一応は学校で学んだものですが、覚えている人は少ないようです。「人類は猿から進化した」と言ったのはダーウインでしたが、では「猿と人間の違いは何か」ということになるとわからない。たまに書籍などで「猿人」や「原人」という言葉が出てくると、猿人と類人猿とは同じなのか、はてまた「原人」という言葉とどう違うのか、よくわからない人が一般的でしょう。
学問上、古代における人間と猿とは常時二足歩行するかどうかで分かれますが、人類の進化の過程は猿人、原人、旧人、新人と分類されています。「猿人」とは、およそ400万年前から200万年前に生息していたとみられる人類最初の祖先で、「原人」とは、次に出現した人類です。猿人に比べて脳の容積も大きくなり、火を使うなど進化した人類です。「旧人」とは、およそ数万年前まで生息していたと思われている人類で、「新人」とは現代人の祖先です。したがって、先輩社員が新入社員を「こんど入社した新人の‥‥」などと言うのは、「新人」が「新人の‥‥」と言っているようで、考えてみればなんとも奇妙な話です。

 1992年、エチオピアで発見された人骨化石は、顔や体型はチンパンジーに似てはいましたが、440万年前には直立して歩いていたと思われています。その後、アフリカ各地で同時代の人類の痕跡が多数発見されて、総称して「猿人」(アウストラロビテクス)と呼んでいます。
1974年、エチオピアで発見された若い女性の全身骨格の4割にあたる人骨化石は、アファール猿人(370万年前~270万年前)と呼ばれますが、この女性は「ルーシー」と命名され、「人類の母」ともいわれています。このルーシーという名前は、発見者ジョハンソン氏のグループが復元作業中に聞いていたビートルズの「ルーシー・インザ・スカイ・ウイズ・ダイアモンズ」という歌の名前からつけたという、なんとも肩すかしを食らったようなつまらない話です。その後、2000年に3歳の女児のアファール猿人の人骨化石が完全な形で発見されました。
1891年、ジャワで発見された人骨化石(ピテカントロプス・エレクトス=ジャワ原人)は、今から150万年前に生息し、猿人より人に近かったので、学問上「原人」(ホモ・エレクトス)と呼びますが、1980年、ケニアで発見された骨の化石も、180万年前に生息していた原人の骨だといわれています。北京原人(シナントロプス・ペキネンシス)もこの時代です。
1856年、ドイツのデュッセルドルフ郊外のネアンデル渓谷から発見された人骨は、20万年前のものと見られています。有名なネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)ですが、この年代前後の人骨化石が続々と発見されて、これらを「旧人」と呼んでいます。
1868年、フランスのドルドーニュにあるクロマニヨン洞窟で、4万年前の人骨の化石が発見されました。これが、新人(ホモ・サピェンス)と呼ばれる現代人の祖先です。
1987年にハワイ大学のR・キャン氏が、多数の人骨からミトコンドリアDNAを採取して調べた緒果、アフリカで発見された20万年前のひとりの女性に行き着いたといいます。この人骨を、恐れ多くも『旧約聖書』に出てくる最初の女性の名前をとって、「イブ」と名づけています。なお、この方法で調べたところ、日本人の中には欧米人にはないアルコールがまったく受け付けない人がいますが、先祖は中国東北部のあるひとりの女性だったという説があります。
人類は東アフリカの大地溝帯で発生して、メソポタミアから東西に分かれて進出していき、環境に順応し、メラニン色素の量などの減少などによって、白人や黄色人が出現したといわれています。「人間は猿から進化した」と発表したのはダーウインですが、ユダヤ教やキリスト教では神がアダムとイブを造ったという『旧約聖書』の記述を固く信じている人も多くおりますから、キリスト教徒の多い欧米では学校で進化論を教えていても、その矛盾に悩んでいるのは皮肉です。『日本神話』にも似た話がありますが、最近の日本人は宗教には無関心の人も多いようですから、その点は欧米人より問題が少ないようです。喜んでいいのか悪いのかわかりませんが。

しかし、現在の学説はだんだんと猿説に近づいています。しかも、そのルーツは黒人だそうです。遺伝子は黒人の方が優性だから、近い将来人類すべてが黒人に帰っていくことでしょう。色が浅黒いといって悩んでいる人は、もしかすると誰よりも進化した「未来から来た人」かもしれないのですから、胸を張って歩きましょう。もっとも、下を向いて肩を落として歩けば、猿人や原人が進化しないでそのまま現れた、と誤解されるかもしれません。

(篠井純四郎)

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